カンボジア・ベトナム戦争
ベトナムと民主カンプチアの間の戦争 (1978-1991) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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カンボジア・ベトナム戦争(カンボジア・ベトナムせんそう、柬越戦争)は、冷戦の地政学的状況下で戦われたベトナム社会主義共和国とカンボジアの陸海国境に沿った限定的な衝突に始まり、時には師団規模の軍事編成での衝突に発展した争い。
カンボジア・ベトナム戦争 | |
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ベトナム軍のカンボジア進攻図 | |
戦争:中越戦争・インドシナ戦争・冷戦 | |
年月日:1975年5月 - 1989年9月 大規模な戦闘は1978年12月25日のベトナム軍侵攻から1979年1月7日のプノンペン陥落まで | |
場所:カンボジア、ベトナム南部、タイ東部国境 | |
結果:ベトナム軍勝利[note 1]
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交戦勢力 | |
ベトナム カンプチア救国民族統一戦線 カンプチア人民共和国 (1979年1月10日 - ) 援助国: アルバニア[1] |
民主カンプチア 民主カンプチア連合政府:
援助国: |
指導者・指揮官 | |
レ・ズアン チュオン・チン グエン・ヴァン・リン ヴォー・グエン・ザップ ヴァン・ティエン・ズン レ・ドゥック・アイン ヘン・サムリン フン・セン ペン・ソバン チア・シム |
ポル・ポト キュー・サムファン イエン・サリ ソン・サン ディエン・デル(英語版) ノロドム・シハヌーク |
戦力 | |
15 - 20万人のベトナム軍[note 2] | 73,000人 (1979年)[2] 30,000人 ( - 1989年)[note 3] |
損害 | |
15,000人戦死 30,000人戦傷 (1979年 - 1989年)[note 4] |
15,000人戦死 (1979年)[3] |
1978年12月25日、ベトナムはカンボジアへの全面的な侵攻に踏み切り、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)を政権から駆逐してカンボジア国土の大半を占領するも最高指導者のポル・ポトとクメール・ルージュの残党はジャングルに逃げ隠れ、地下活動を続けて長期化させた。中越戦争と併せて第三次インドシナ解放戦線と総称される。
ベトナム戦争中、ベトナム共産党とクメール・ルージュは、両国内の親米政権に対抗するため連合を形作っていた。しかし、ベトナムとの共闘を誇示していたにもかかわらず、クメール・ルージュ指導部は、ベトナム共産党がこの地域における優勢な軍事力でインドシナ連邦を形成しようと策動していることを恐れていた。優勢な状態にあるベトナムの計画を阻止するため、1975年にロン・ノル政権が降伏したとき、クメール・ルージュ指導部は、ベトナムで訓練を受けた同志を粛清し始めた。
間もなく、1975年5月、クメール・ルージュに支配された新生民主カンプチアは、ベトナムに対する戦争を開始し、まずベトナムのフーコック島を攻撃した。両国の間で戦闘が行われたにもかかわらず、再統一したベトナム指導部とカンボジア指導部は、1976年を通じて表向きは両国の強力な関係を強調する外交を展開した。しかしその裏で、カンボジア指導部はなおもベトナムの拡張主義と認識していたものを恐れていた。
そのような中で1977年4月30日、カンボジアはベトナムに対する別の大規模な軍事攻撃を開始した。カンボジアの攻撃に衝撃を受けて、ベトナムはカンボジア政府を交渉のテーブルにつかせることを目的に、1977年末に報復攻撃を開始した。1978年1月、ベトナム軍はその政治目的に達しなかったため、撤退した。
中華人民共和国が両国の平和交渉の仲介に当たろうとする中で、1978年を通じて両国間に小競り合いが続いた。しかしいずれも交渉の席で受諾可能な妥協には至らなかった。1978年末までにベトナム指導部は、カンボジアのクメール・ルージュ政権を、中華人民共和国寄りでベトナムに反感を持ち過ぎるとし、排除することに決定した。1978年12月25日、ベトナム軍15万人がカンボジアに侵攻し、ほぼ2週間でカンボジア軍を殲滅した。
1979年1月8日、親ベトナムのカンプチア人民共和国 (PRK) がプノンペンで建国され、10年に及ぶベトナムの占領が始まった。この時期、クメール・ルージュ率いる民主カンプチアでは、数個の武装抵抗集団がベトナムの占領に抵抗するべく結成され、依然として国際連合からカンボジアの正当な政権と認められていた。その裏でPRKのフン・セン首相は、平和交渉を始めるために、民主カンプチアの各派に接近した。国際社会からの強力な外交圧力と経済圧力の下、ベトナムは一連の経済改革と外交政策の改革を行い、1989年9月にカンボジアから撤退することになった。
1990年に開かれた第3回ジャカルタ非公式会議において、オーストラリアが主導するカンボジア和平計画の下、CGDKとPRKの代表団は、最高国民評議会 (SNC) として知られる統一政権を樹立し、権力を共有することで合意した。SNCの役割は、国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC) が、カンボジア政府が平和的で民主的な過程を通じ、人民により選ばれるまでカンボジア国内の政策を管理することを任務とするものである。とはいえSNCは、国際社会においてカンボジアを代表することになった。クメール・ルージュ指導部は総選挙に参加しないと決定していたため、カンボジアの平和への道筋は難航があきらかであった。彼らは参加の代わりに国連平和維持部隊への軍事攻撃を開始し、ベトナム系住民を殺害することで選挙運動を粉砕する道を選んだ。
1993年5月、最高国民評議会議長ノロドム・シハヌーク率いるフンシンペックは、総選挙に勝利してカンボジア人民党 (CPP) を破った。しかしCPP指導部は敗北を認めることを拒否し、CPPの票のほとんどが投じられたカンボジア東部の県が、カンボジアから分離すると発表した。そのような結果が起こらないよう、フンシンペックの指導者ノロドム・ラナリットは、CPPとの連立政権を樹立することで合意した。間もなくして立憲君主制が復活し、クメール・ルージュは新生カンボジア政府により非合法化された。