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青山 幸宜(あおやま ゆきよし)は、江戸時代末期の大名。美濃国郡上藩第7代(最後)の藩主。幸成系青山家11代。明治維新後は華族(子爵)に列し、貴族院議員を務めた。
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嘉永7年(1854年)、6代藩主・青山幸哉の長男として誕生した。文久3年(1863年)、父の死去により家督を継ぐ。
元治元年(1864年)、天狗党の乱では幕命に従って鎮圧のために出兵したが、天狗党が既に通過した後だったために戦うことなく終わっている。幕末期の郡上藩では、佐幕派と尊王派が対立し、幸宜も消極的ながら佐幕派として行動していたが、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まると、2月に新政府に恭順している。しかし家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉が凌霜隊を結成して脱藩し、幕府側に味方して会津若松城で戦うなどしている。
明治2年(1869年)の版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で免職された。明治17年(1884年)の華族令制定に伴い、同年7月8日に子爵を叙爵[1]。その後は実業家として活動、日本印刷社長、岩倉鉄道学校理事などを務めた[2]。1890年(明治23年)7月10日に貴族院議員に就任し[2][3]、1925年(大正14年)7月9日まで5期在任した[3]。このほか、赤坂区会議員[3]、東京市会議員を務めた[4]。
昭和5年(1930年)2月6日に死去。享年77。
市川米庵に書を学び、多くの名筆を残したといわれる。
幸宜の従兄弟で、旧篠山藩主子弟の青山忠誠が藩内の子弟(のちに兵庫県居住者の子弟)のために東京に建てた寄宿舎尚志館には、幸宜によって書かれた看板が現在も残っている。[7]
父母
妻
子女
孫
長男の幸正は、父に先立って1904年に死去した[13]。幸宜の跡は次男の幸直が継ぎ、幸直が1947年7月に没すると長男の幸壽が跡を継ぐ[13]。幸壽は1986年に没した[13]。
六男の幸高は、陸軍勤務の後、戦後は日本で初めて競馬馬の輸送自動車会社を起こした。ローマオリンピックの日本馬術競技の監督、日本馬術連盟理事などを歴任している。七男の幸敬は陸軍獣医学校教官など陸軍畑で活躍後、戦後は会社経営に携わった。
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