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鈴木 紋次郎(すずき もんじろう、1880年(明治13年)3月 - 1939年(昭和14年)10月26日[1])は、日本の実業家。結婚によって浅野総一郎の親戚になり、浅野財閥の多数の企業の要職を歴任した。
鈴木紋次郎(旧姓:大洞紋次郎)は岐阜県人の大洞善兵衛の次男として、1880年(明治13年)3月に生まれた[2][3]。1904年(明治37年)[4]か、1905年(明治38年)に東京高等商業学校(一橋大学)を卒業して、第一銀行(みずほ銀行)に就職した[2][5]。
大洞紋次郎は、第一銀行で働いている時期に、第一銀行の創立者渋沢栄一[6]の紹介で、1907年(明治40年)4月に、鈴木タカと結婚して、婿入りし、鈴木紋次郎となった[2][3][4][7]。鈴木タカの養父であった鈴木恒吉は、浅野総一郎(浅野財閥創始者)や渋沢栄一(渋沢財閥創始者)や大倉喜八郎(大倉財閥創始者)と共に札幌麦酒(サッポロビール)を創立し、自らも鈴木洋酒店(伊藤忠食品)を経営していた人物で[8]、継嗣がなかったので、妹サクと浅野総一郎の四女ないし五女のタカを養女にしていた。
鈴木紋次郎は、1913年(大正2年)に第一銀行を辞職して、浅野財閥に移った[2][5]。
沖電気・浅野造船所(ジャパンマリンユナイテッド、JFEグループ)・京浜運河(東亜建設工業)の常務取締役、浅野同族・浅野小倉製鋼所・浅野⽯材⼯業・朝鮮鉄⼭・神奈川コークス(東京ガスエネルギー)・内外⽯油・東洋草莚・信越⽊材・太平洋貿易の取締役、 関東⽔力電気(佐久発電所)・浅野セメント(太平洋セメント)・芳野浦鉱業・⽇之出汽船(NYKバルク・プロジェクト)・台湾地所建物・⼤⽇本鉱業・千代田⽯油・中央製鉄・浅野物産(丸紅、NIPPO)・⽇本鋳造・鶴⾒⽊⼯・⾜利紡績(東洋紡)・鶴⾒臨港鉄道(JR鶴見線)・南武鉄道(JR南武線)の監査役、 はい原本店、醬油商[5]。浅野製材・淺野⽯油の監査役、酒醬油商、榛原元店[3]。鶴見製鉄造船(ジャパンマリンユナイテッド、JFEグループ)の専務[4]。日本鋳造の副社長、鈴木洋酒店(伊藤忠食品)の代表取締役、朝鮮鉄山・小倉築港(小倉興産)の取締役、南洋製鉄・南洋鉄鉱・浅野雨龍炭鉱・鶴見窯業の監査役[2]。
1939年10月26日没。墓所は谷中霊園。
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