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平安時代中期の公卿。藤原長家の次男。正二位・大納言。勅撰集『後拾遺和歌集』以下に4首入集。御子左家2代。出家 ウィキペディアから
藤原 忠家(ふじわら の ただいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家御子左流、権大納言・藤原長家の次男。官位は正二位・大納言。
後朱雀朝末の寛徳元年(1044年)に元服して従五位下に叙爵し、翌寛徳2年(1045年)侍従次いで左近衛権少将に任官する。寛徳3年(1046年)従五位上次いで正五位下、永承3年(1048年)従四位下次いで従四位上、永承4年(1049年)正四位下と順調に昇進し、永承5年(1051年)従三位に叙せられ公卿に列した。
公卿昇任後も、永承6年(1052年)正三位・右近衛中将、天喜2年(1054年)従二位と昇進し、康平3年(1060年)参議に任ぜられる。参議任官後も引き続き中将を兼ね、康平6年(1063年)権中納言、康平7年(1064年)正二位、延久4年(1072年)権大納言に叙任された。この間の康平8年(1065年)中宮権大夫を兼ねると、皇太后宮権大夫・太皇太后宮大夫として、約10年に亘って章子内親王に仕えている。
承暦4年(1080年)藤原師実の関白就任を不満として出仕を取り止めていた内大臣・藤原信長が太政大臣に祭り上げられた際、忠家は大納言に昇進した。しかし、信長と近かった忠家は弟の藤原祐家とともにこの人事を不満として、出仕を取り止めてしまい、翌永保元年(1081年)不出仕により職封を止められている。
応徳3年(1086年)堀河天皇の即位式では外弁を務め[1]、翌応徳4年(1087年)の踏歌節会では内弁を務めた。寛治4年(1090年)9月25日出家。最終官位は大納言正二位。翌寛治5年(1091年)11月7日に薨去。享年59。
『公卿補任』による。
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