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平安時代後期の公卿。従二位・権中納言 ウィキペディアから
後冷泉朝末の治暦2年(1066年)従五位下に叙爵し、治暦4年(1068年)侍従次いで左近衛少将に任官する。
延久元年(1069年)従五位上、延久4年(1072年)正五位下次いで従四位下、承保元年(1074年)従四位上、承保2年(1075年)正四位下・左近衛中将に叙任されるなど、後三条朝から白河朝にかけて近衛次将を務めながら順調に昇進する。承暦4年(1080年)蔵人頭(頭中将)に任ぜられると、右近衛中将を経て、永保2年(1082年)に参議に任ぜられて公卿に列した。
議政官の傍らで引き続き近衛中将を兼ね、永保4年(1084年)従三位、寛治2年(1088年)正三位と昇進する。寛治5年(1091年)権中納言に昇るが兼官を全て解かれた。寛治7年(1093年)従二位に至り、嘉保2年(1095年)左兵衛督、永長2年(1097年)右衛門督を兼ねている。
承徳2年(1098年)11月17日薨去。享年43。最終官位は権中納言従二位兼右衛門督。この日、関白・藤原師通の春日詣があり、共も寅刻から関白殿に参上したが、基忠の薨去により停められたという[1]。
嘉保2年(1095年)の「永長の大田楽」の際には、権中納言の高官であったが、「九尺の高扇」を掲げて踊り狂ったという(大江匡房)。
『公卿補任』による。
『尊卑分脈』による。
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