藤原伊経

ウィキペディアから

藤原 伊経(ふじわら の これつね/いけい)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家能書家歌人藤原北家世尊寺家宮内少輔藤原伊行の子で建礼門院右京大夫の兄。官位正四位下太皇太后宮亮。世尊寺家7代。

概要 凡例藤原伊経, 時代 ...
 
藤原伊経
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 不詳
死没 嘉禄3年1月3日1227年1月21日
官位 正四位下太皇太后宮亮
主君 安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇
氏族 藤原北家世尊寺家
父母 父:藤原伊行
兄弟 伊経藤原頼実室、建礼門院右京大夫行家、尊円、大夫局、藤原光綱
増宗の娘
世尊寺行能、経円、禎快、覚深、能経、伊子
テンプレートを表示
閉じる

経歴

能書家・歌人として知られ、中務少輔宮内少輔・太皇太后宮亮などを歴任し、元久4年(1204年)に正四位下に叙された。藤原教長からの口伝を筆記して書論書『才葉抄』を著し、『千載和歌集』奏覧本(天皇に献上する勅撰和歌集の完成本)の外題を記すなど、世尊寺流の大家として知られていたが、官位の昇進は振るわず、経済的には苦しかったとみられている。『千載和歌集』『新勅撰和歌集』に1首ずつ和歌作品が採録されている[1]

藤原兼実元暦元年(1184年)に上表文の清書を伊経に依頼したものの、伊経は清書の際に着用する正装を用意出来ずに仮病と称してこれを辞退、代役であった藤原頼輔の清書が良くなかったために兼実が失望したという逸話が残されている[2]。なお後に兼実が摂政を辞任した際の上表文の清書は伊経が担当している。

系譜

  • 父:藤原伊行
  • 母:不詳
  • 妻:増宗の娘
  • 生母不詳の子女
    • 男子:経円
    • 男子:禎快
    • 男子:覚深
    • 男子:藤原能経
    • 女子:藤原伊子(藤原基房妾)

脚注

出典

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.