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蔣 孝勇(しょう こうゆう、1948年〈民国37年〉10月27日 - 1996年〈民国87年〉12月22日)は、中華民国の実業家、政治家。蔣経国と蔣方良の三男。同母兄姉に蔣孝文、蔣孝武、蔣孝章、異母兄に蔣孝厳と章孝慈がいる。蔣友柏は長男にあたる。
国共内戦中の上海に生まれ、生後間もなく家族とともに台湾への移住を余儀なくされた。
兄たちに比べ謙虚な性格であり、父に最も似ていると言われた。一方で周囲の人間からは、表面上の穏健さとは裏腹な陰湿さを指摘されている。
祖父・蔣介石の希望に従い陸軍軍官学校に進む。ここでも2人の兄とは違って学校の綱紀を守り成績も優秀だったが、訓練中の負傷が元で学校を離れ、国立台湾大学に進学する。大学では総統の一族ということで、周囲からの注目を集めた。
幼いころから政界の暗部を目の当たりにして育ったこともあり、大学卒業後は実業家の道を選んだ。父・蔣経国は失望を隠せなかったとされるが、結局は息子の意志を尊重した。もっとも息子の蔣友柏のように完全に政界との縁を切ったわけではなく、父の希望で中国国民党の中央財務委員にも就任している。実業家としては「総統の息子」というバックボーンとその能力を活かして活躍、政財界の重要なポストを占め、若年ながら高い声望を誇った。
1985年(民国74年)、父の健康状態が悪化すると、財界で長年掛けて築いた地位を捨て父の補佐に当たる。というのも本来後継者候補とされていた2人の兄が、後述するような理由で政界での影響力を失っていたためである。週2回、蔣孝勇は父に公私各種の報告を行った。蔣孝勇の権勢は強まり、「影の総統(地下總統)」の異名を取る程であった[1]。
1988年(民国77年)1月13日、蔣経国が77歳で死去すると蔣孝勇も中国国民党の中央委員に選ばれ、今後も政界で活躍するかと思われたがその直後に突如出国し、カナダに移住した(後にはカナダ国籍を取得している)。
その後、父の後継者でもある李登輝が進めた「一つの中国、一つの台湾」という方針に不満を抱き、1996年(民国85年)に行われた初の直接民選による中華民国総統選挙では白票を投じた。また、新聞に寄稿し台湾による中国統一を主張する新党への投票を呼びかけるなど、活発な政治的活動を行った。しかしこの時、蔣孝勇はすでにガンに侵されていた。
同年5月、蔣介石の孫(同じく孫の章孝慈が先に訪中はしていたが桂林の母・章亜若の墓を訪れたとされる[2])として初めて中華人民共和国浙江省奉化市の故地で蔣家の墓を訪れ[3]、同12月22日、食道ガンのため台北の病院でその48年の生涯を閉じた。すでに2人の兄も死去しており、これによって蔣経国と蔣方良の間に生まれた3人の息子は全員故人となった。
祖父母の蔣介石・宋美齢に非常に愛され、蔣介石が満面の笑みで幼い彼を抱いた写真が残っている。
同母兄弟の内、長兄の蔣孝文はアメリカ留学後に党の幹部となっていたが、遺伝性の糖尿病と過度の飲酒により1970年(民国59年)に35歳で病に倒れ、以後1989年(民国78年)の死まで寝たきり状態であった。そのため次兄の蔣孝武が後継者と見做されていたが、彼は江南事件(1984年、国民党の内情を暴露しようとした作家の劉宜良(江南)が暗殺された事件)の黒幕とされ、また素行も悪かったためその座を追われた。彼もまた1991年(民国80年)、46歳で亡くなっている。
陸軍学校在学中に後の妻となる方智怡と恋に落ち、1973年7月23日に結婚した。2人の間には蔣友柏、蔣友常、蔣友青の三男が生まれている。妻の方智怡は現在国民党中央常務委員を務める政治家、蔣友柏・蔣友常の兄弟は実業家である。中でも方智怡は蔣介石父子の亡骸の台湾島内での移葬を拒否して中国浙江省の故郷に帰葬することを求め[4]、蔣友柏は蔣家の過去の行いを批判するなど、ともに政治的発言が話題になっていることで知られている。
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