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粕谷 義三(かすや ぎぞう、慶応2年8月15日(1866年[1]9月23日)-昭和5年(1930年[1])5月4日)は、明治から昭和期の政治家。号は竹堂[1]。旧姓・橋本。
武蔵国入間郡[1]上藤沢村(現在の埼玉県入間市)の地主・橋本要作の長男として生まれる[2]。明治12年(1879年)に上京して漢学と洋学を修め、一時川越にあった郡役所の書記となるが、明治19年(1886年)にアメリカに留学、サンフランシスコで一時邦字新聞社に務めた後、ミシガン大学に入学、明治23年(1890年)に法学士を得て帰国して、自由新聞の主筆となる[1]。翌年2月、同じ入間郡豊岡町の粕谷圭助の養子となり、翌月兄佳太郞の跡を相続[1][2]。明治25年(1892年)に埼玉県会議員に当選して県会副議長を務め、明治31年(1896年)の第5回衆議院議員総選挙に埼玉県第2区から自由党候補として出馬して初当選、以後憲政会・立憲政友会に移りながら通算10回当選を果たした[1]。入閣こそなかったものの、党の要職を歴任、大正9年(1920年)に衆議院副議長、次いで大正12年(1923年)に衆議院議長に就任した。名議長として定評があった[1]が、昭和2年(1927年)の金融恐慌の影響で第52回議会が混乱状態となり、引責辞任した。また、扇町屋銀行頭取はじめ、蓬莱生命保険や武蔵野鉄道、黒須銀行、東上鉄道の役員を務めるなど[2]、実業界でも名を残した。
昭和5年(1930年)、東京にて死去。墓所は入間市の長泉寺。
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