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立川文庫(たつかわぶんこ)は、立川文明堂(大阪市東区博労町、後に南区安堂寺橋通へ移転)が1911年(明治44年)から1924年(大正13年)にかけて196篇を刊行した、「書き講談」による文庫本シリーズ[1][2]。当時の小学生から商店員らに爆発的なブームを呼んだ。『真田幸村』、『猿飛佐助』、『霧隠才蔵』等で知られる[1][2]。読みは「たちかわぶんこ」ではなく「たてかわぶんこ」でもなく「たつかわぶんこ」である[3][4][5][6]。
講談を速記して本にすることは1890年代の流行であったが、旅回りの講談師玉田玉秀斎の妻・山田敬の連れ子である山田阿鉄(山田酔神)が、速記者を使わずに直接講談を筆記する書き講談を思いつく。この書き講談を小型本(文庫本)化する案を、大阪の主要な出版元に持ち込むが相手にされず、唯一企画を受け入れたのが、1904年に立川文明堂を創業した立川熊次郎(たつかわ くまじろう、1878年 - 1932年、兵庫県姫路市勝原区宮田出身)であった。
装丁は、当時廉価な文庫本として東京の出版界を席巻していた袖珍文庫(三教書院)を模倣し[7]、四六版半裁のクロス装、縦12.5cm、横9cm。定価は一部25-30銭程度だったが、実際の販価は10銭前後、仕入値は6、7銭だったという。袖珍文庫の表紙の「銀杏」の模様に変えて、「胡蝶」を使ったことから対比され、袖珍は「いちょう本」、立川は「こちょう本」と呼ばれて多くの人に親しまれた。
主に少年を対象としたこの文庫の内容は、講談や戦記、史伝などであった。なかでも立川文庫の地元である大坂の陣で活躍した武将真田幸村や、その家臣であるとされる猿飛佐助、霧隠才蔵などの忍者ものが好まれて、こういった物語上の人物をあたかも実在の人物であるかのように定着させてしまう。当初は玉秀斎の語るのを阿鉄が筆記していたが、次第にあらすじを元に阿鉄が書き下すようになった。「雪花山人」(「雪花散人」、せっかさんじん)、「野花散人」(やかさんじん)等の署名を用いているが、執筆者は、阿鉄やその弟の山田顕、山田唯夫、敬の孫でのちに自伝小説で立川文庫創設の経緯を記した池田蘭子ら、多様な人物が加わった集団体制であった[3][5][6]。『諸国漫遊一休禅師』を第1作として200篇あまりを刊行、「古本+3銭」で新本と交換するシステムも取り入れ、小中学生を中心に大ヒットした。これに刺激されて赤本出版社である博多成象堂の武士道文庫、岡本偉業館の史談文庫、榎本書店の英雄文庫、他に忍術文庫、冒険文庫、探偵文庫などの亜流も現れた。
立川文庫の人気は大正末期には下降していくが、それまでの速記講談から、書き講談の手法を定着させ、子供向けではあったが大人向けの文芸、大衆文学や時代劇にも大きな影響を与えた。講談社が1911年(明治44年)に創刊した『講談倶楽部』も1913年(大正2年)頃から速記講談から書き講談(新講談)に移行し、国民的雑誌となった『キング』や『少年倶楽部』の作家にもその奔放な想像力は受け継がれる。
立川文庫で最も人気のあった『猿飛佐助』は、立川文庫の第40篇として1913年(大正4年)に出版された。「佐助」の名前は『真田三代記』の異本に出ているとも言われているが、その人物像は他の真田十勇士とともに山田阿鉄らの創作である。山田敬は今治の回船問屋日吉屋の一人娘だったが、日吉屋の先祖の藤堂藩士が伊賀にいたことから、阿鉄のアイデアで忍術を武芸十八般に加え、『真田三代記』と『西遊記』をミックスし、真田十勇士の人物像を創造した。これらの作品は、それまでの勧善懲悪的な物語に対して、明朗で人間味溢れる人物像が大衆の人気を集めた。
網羅できておらず、ところどころ不明である。末尾は主人公である。
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