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王立研究所(おうりつけんきゅうしょ、Royal Institution of Great Britain 短縮されて、Royal Institution)(王認研究所(おうにんけんきゅうじょ)とも訳される)[注釈 1]は、イギリスに1799年に設立された、科学教育、科学研究の機関である。設立者には、ヘンリー・キャヴェンディッシュや、第9代ウィンチルシー伯ジョージ・フィンチがいる。
研究所のはじめの資金と設立の提案は、社会改革家のトーマス・バーナード卿と科学者のラムフォード伯ベンジャミン・トンプソンが率いる救貧団体、"Society for Bettering the Conditions and Improving the Comforts of the Poor"によってなされ、1799年にロンドンの王立協会の会長、ジョゼフ・バンクスのSoho Square Houseに設立された。ヘンリー・キャヴェンディッシュや、第9代ウィンチルシー伯ジョージ・フィンチらが設立者となり、第一に、有益な発明や改良の効果的な普及、次に技術的な知識の交換のための教育的広報活動、講演会、出版物、見学会、継続的な展示を通じて、農業や工業のための新技術、装置、機械の応用などを目的に設立された。1800年に勅許を受けた。
研究所は50ギニー以上を出資する経営会員(プロプライター)と維持者、寄付者を募集して開かれた。はじめは90人が集まりその中から10人の理事が決められた[1]。1803年に経営会員が350人を超えその数で一定した[1]。研究所の運営は、これらの出資、寄付の他、講義の参加料に頼った[1]。そのため講義の参加者数が研究所の運営を左右した[1]。
研究所で最初に公開講義をしたのは科学の巡回講師をしていたトマス・ガーネット (1766–1802) である[2]。ガーネットは1799年に研究所に招かれて着任し、1800年3月から講義を始めた。聴衆は女性も含めて500人を超えたという[3]。ガーネットは「科学に関わって生活する人のための教育」と「科学を楽しむこと」を同時に求め、初期の研究所の活動の規範とした[4]。しかし、ガーネットは研究所の経営のまずさで約束した報酬を払ってもらえず、1年半で研究所をやめてしまった[5]が、公開講義の伝統は引き継がれた[4]。講演会のチケットは庶民には高価であった[6]が多くの聴衆が集まった。講演会で特に人気を博し、多くの聴衆を集めたのはハンフリー・デービーとその後を継いだマイケル・ファラデーが知られている[1]。デービーは1801年に研究所の化学補助講師、化学実験室管理者に着任した[7]。デービーは1800年に発明されたばかりのボルタ電池を使って、食塩水の電気分解や、1808年に発明されたばかりのアーク灯の輝きを聴衆に見せて驚かせた[2]。後任のファラデーも自身の最新研究である電磁気学の発見を講義した[2]。
研究所はこうした講演活動を通じて、教育や科学の発展に貢献し、1827年から始められた[8]年少者向けの、クリスマス・レクチャーはマイケル・ファラデーらが講義を行った。ファラデー以後も多くの科学者が王立研究所で活動し、ハンフリー・デービー、マイケル・ファラデー以外に、ローレンス・ブラッグ、チャールズ・ハチェット、ジョージ・ポーターらがいた。10数人の研究者がノーベル賞を受賞し、10の元素が発見された。1973年に、マイケル・ファラデー博物館が所内に開館され、2007年までに実際の研究活動には使われなくなった。
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