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『点石斎画報』(てんせきさいがほう)は、中国清代末期の上海で刊行された絵入り新聞[1]。当時の時事から民俗まで様々な内容が載っている。
1884年5月(光緒10年4月)に創刊され、1898年8月(光緒24年8月)528号の終刊まで[2][注釈 1]、当時最新の石版印刷で刊行された[3]、代表的な清末の石印画報。発行元はアーネスト・メイジャーらが創業した申報館[3][4]。挿絵は呉友如らが描いた[3]。
記事の内容は多岐にわたり、清仏戦争や日清戦争などの政治時事から[3]、蒸気機関車やエレベーターなど最新のテクノロジー[1][3]、市井のゴシップや事件[3]、末期の科挙[1][5]、民俗[6][7]、妖怪[6][8]、当時珍獣だったゾウ[1]、UFO[9]まで様々な事物が扱われた。日本を含む外国についての記事も多い[10][1][8]。また付録として、王韜の文言小説『淞隠漫録』が連載された[11]。
「点石斎」という名は、発行元の申報館付設の印刷所「点石斎石印書局」に由来する[5]。「点石」は石版印刷技術を表し、また成語の「点石成金」(点鉄成金ともいう、不十分な文章に手を入れて立派な文章にすること)も含意する[5]。
価格は5分(子供のおやつ代程度)、体裁は線装本冊子で各号8葉9図(=絵入り記事9つ)、発行は月3回(6日、16日、26日)の旬刊だった[12]。また、12号毎に1集として合冊版も販売された[12][注釈 2]。
創刊経緯として、同社既存の『申報』や『寰瀛画報』よりも大衆受けする新聞が必要とメイジャーが考えたこと[13]、当時欧米で『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』『イリュストラシオン』などの絵入り新聞が流行しており[14][注釈 3](挿絵の黄金時代)、メイジャーがこの流行を中国にも導入しようと考えたこと[16]、当時進行中の清仏戦争の報道需要が高まっていたこと[13]、などがあった。
創刊から人気を博し、中国各地に販売所が設けられた[16]。本紙の成功を受けて、他社から模倣も出たが、継続期間も品質も本紙が突出していた[17]。魯迅や包天笑も本紙に言及している[18]。
現代の中国学では、1980年代から影印出版、2010年代から電子化が進み[3]、歴史資料・図像資料として様々な文脈で参照されている。日本では武田雅哉が第一人者とされる[3]。それ以前にも青木正児が着目していた[19]。
画法はペン画や遠近法など西洋のものが積極的に使われた[20][1]。画法・画題ともに、花鳥画のような伝統的な中国絵画を逸脱しているため、守旧派から非難されることもあった[21]。エレベーターなどのイラストは絵師の伝聞と想像により描かれた[1]。
絵師は主に上海や蘇州で年画描きをしていた中国人約20人だった[22]。その中心人物として呉友如(ご ゆうじょ、1840年頃 - 1894年)がいる[3]。呉友如は、江蘇省元和県(蘇州)出身の年画描きで、幼少期に太平天国の乱を避けて上海で絵を修得し、当時の両江総督曽国荃の推薦で朝廷に召され『金陵功臣戦績図』を描くほどの人物だった[22]。呉友如は『点石斎画報』に創刊から携わった後、1890年秋に独立して『飛影閣画報』を創刊した[23]。没後の1909年には、作品集『呉友如画宝』が刊行された[23]。
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