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平安時代中期の公卿 (922–995) ウィキペディアから
源 重信(みなもと の しげのぶ)は、平安時代中期の公卿。宇多天皇の皇子である式部卿・敦実親王の四男。官位は正二位・左大臣、贈正一位。六条左大臣と号す。
承平4年(934年)12歳にして昇殿を許された。年月不詳ながら源朝臣の氏姓を賜る。承平7年(937年)二世孫王待遇の蔭位により従四位下に直叙される。天慶3年(940年)殿上人となり、天慶4年(941年)侍従に任ぜられる。その後いったん殿上人から外れ、左馬頭に美作守を兼ね、天暦5年(951年)従四位上に昇叙。同年殿上人に復し、右近衛権中将となる。天暦9年(955年)左兵衛督に転じる。
天暦11年(957年)修理大夫任官。天徳4年(960年)参議に任ぜられ公卿に列したが、その後も修理大夫を長く兼帯した。応和元年(961年)内裏造営に功があったとして正四位下、応和3年(963年)にはさらに追加の褒賞として従三位に叙せられ、順調な昇進をとげた。
安和2年(969年)に起きた安和の変により左大臣源高明が失脚すると、その女婿であった重信にも累が及び、昇殿をとどめられた。しかし官位昇進には支障はなく、安和3年(970年)大蔵卿を兼ね、天禄3年(972年)に権中納言に昇進、天禄4年(973年)には再び昇殿を許された。
天延2年(974年)皇太后昌子内親王の皇太后宮大夫となる。同年朔旦冬至の叙位により正三位に昇叙、天延3年(975年)中納言、貞元3年(978年)大納言と昇進した。天元2年(979年)には、長岡頓宮への行幸に供奉した褒賞として、文官でありながら帯剣して参内することを許された。天元4年(981年)従二位昇叙。同年上賀茂神社・平野神社への行幸をとりしきった功により正二位となる。
その後は大臣に空席ができなかったため、長く大納言に留まる。この間、天元6年(983年)に按察使を兼ね、また寛和2年(986年)昌子内親王が太皇太后に転じたため太皇太后宮大夫となっている。同年、従一位昇叙を辞退し、代わって息子の相方が正四位下に叙せられている。正暦2年(991年)に至って、兄・雅信に遅れること14年にして、右大臣に任ぜられ、雅信と兄弟で左右大臣を占めた。正暦5年(994年)前年に死去した雅信のあとを受けて左大臣に昇進する。同年、一条天皇の践祚にともない居貞親王(のちの三条天皇)が皇太子となると、その東宮傅を兼ねた。
正暦6年(995年)5月8日、病没。享年74。5月26日、正一位を追贈された。
恋愛ごとは不得手であったが、若々しく愛敬があり人なつっこい性格であった[1]ことから、若い頃、兄・雅信にも増して村上天皇にかわいがられたという[2]。父・敦実親王に似て音楽に秀で、笙・笛を得意とした。
重信が所有していた宇治の別荘は、没後に姪の婿であった縁で藤原道長に買い取られ、のちにその息子・頼通に伝えられて平等院となった[1]。
修理大夫を務めていた頃、出家して仁和寺に住んでいた父・敦実親王のご機嫌伺いに訪問する際、往路は内裏の東側(東大宮大路)・北側(一条大路)、復路は内裏の西側(西大宮大路)・南側(二条大路)と、行き帰りの行路を利用して内裏の周囲を見て回り、破損している場所があれば修理したという[2]。
『公卿補任』による。
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