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日本の公卿 ウィキペディアから
藤原北家小野宮流の祖である藤原実頼の嫡男として、関白太政大臣にまで登り詰める。しかし、天皇と外戚関係を得ることができず、摂関の座を従弟にあたる九条流の家系に独占されることとなり、子孫は栄達しなかった。
藤原実頼の次男として産まれ、始め母方の伯父である藤原保忠の養子となる[1]。朱雀朝の天慶4年(941年)従五位下に叙爵し、翌天慶5年(942年)侍従に任ぜられる。右兵衛佐になっていた天暦元年(947年)、兄の敦敏が早世したのを受けて、急遽、当時左大臣に上っていた実頼の嫡男となる、この時点で既に死去していた養父・保忠の財産を継承したことは、『朝野群載』[2]から知ることができるが、ただし、この時代の養子縁組には家の継承の要素は希薄で必ずしも実家との関係を断つものではなかったとされ、保忠の養子となった頼忠が実家の小野宮家を継ぐことは問題とされなかったと考えられている[3]。
村上朝の天暦2年(948年)従五位上・右近衛少将に叙任されると、天暦6年(952年)正五位下、天暦9年(955年)従四位下・右近衛権中将と、村上朝前半は近衛次将を務めながら順調に昇進した。
天暦10年(956年)権左中弁に転じると、天徳4年(960年)従四位上・右大弁と、村上朝後半は一転して弁官を務め、応和3年(963年)参議に任ぜられ公卿に列した。参議昇進後も左右大弁を兼帯し、弁官への在任期間は13年の長きにわたる。この期間は、太政官の実務に当たることが長く、故実・実務に通じた公卿としての素養を磨いた期間でもあった。
一方この頃、藤原北家の内部では、叔父・師輔の直系の孫である冷泉天皇が康保4年(967年)に即位し、実頼は既に没していた師輔にかわるかたちで関白(後に摂政)に就任。翌安和元年(968年)、頼忠も関白の嫡男として従三位・中納言に叙任され、弁官を離れた。天禄元年(970年)、実頼の死後、摂政の座は、円融天皇の直接の外戚である伊尹(九条流、頼忠の従弟)に移るが、頼忠もなおも昇進して、上位の中納言である藤原兼家・橘好古を越えて権大納言に昇進し、左近衛大将を兼帯したのに続き、翌天禄2年(971年)正三位・右大臣に叙任された。
天禄3年(972年)に伊尹が急死した際には、頼忠も関白候補の1人に挙げられる。当初、円融天皇は摂関を置かずに頼忠を内覧とする考えがあり、それを頼忠に内示していたとされる[4]。最終的には内覧宣下は伊尹の弟の兼通が受けた(後に関白)が、藤氏長者は頼忠が務めた。天延2年(974年)兼通が太政大臣となったことに伴い、頼忠は藤氏長者を兼通に譲った。
兼通は不仲であった弟・兼家より頼忠を頼りとし、政務の細かいことまで互いによく諮った。貞元元年(976年)12月に兼通は頼忠を一上に任じた。一上が特に定められていない場合には、摂関を除く最上位の公卿、当時の場合には左大臣・源兼明が一上の職務を行う慣例となっていたが、賜姓皇族として人望の厚かった兼明の影響を恐れた兼通による指名であった。翌貞元2年(977年)4月、兼明は兼通の意思によって親王に復帰させられ、空いた左大臣に頼忠が引き上げられる。そして兼通は、自分の死後に摂関家の嫡流の座を兼家の子孫に占められることを恐れて、頼忠を自らの後継にしようと考えていた。この年の8月2日に内裏造営の功労に伴う叙位が行われたが、対象者の多さから儀式を全て終えたのが翌朝になるほどの大規模なものであったが、一上であった頼忠の奉行の下で滞りなく行われたという[5]。同年10月に重病のために危篤となった兼通は、無理を押して参内して最後の除目を行い、頼忠は関白の器であるとして職を譲り、逆に兼家から要職である右近衛大将を奪い、同じ日に頼忠は藤氏長者に復した。それから程なく兼通は薨去した。
関白となった頼忠だが、天皇との外戚関係がないことが弱味だった。『大鏡』によると、「よその人」(外戚)である頼忠は、関白となっても決して直衣では参内せずに布袴を着用し、清涼殿でも殿上間に控え、蔵人を通じて天皇に奏上した。また、円融天皇も親政への意欲から政務の全てを頼忠には一任せずに左大臣の源雅信に一上としての職務を行わせたために権力が分散され、その政治的基盤も不安定であった。この状況の中で、天元元年(978年)4月、頼忠は娘の遵子を女御として入内させた。一方、しばらく不遇だった兼家であったが、同年6月に復帰参内すると、8月に娘の詮子を女御に入れた。更に10月に頼忠が太政大臣に進むと、兼家は右大臣に引き上げられた。天元5年(982年)遵子は中宮に立てられが、皇子を生むことはなく、世間からは「素腹の后」と揶揄された[6]。一方で詮子は懐仁親王を儲け、ますます兼家に有利な情勢となった。雅信とも兼家とも連携することが出来なかった頼忠の関白としての政治力は限定的なものとなり、政治権力も円融天皇・頼忠・雅信・兼家の4つに割れる中で政局は停滞し、「円融院末、朝政甚乱」(『江談抄』)として後々まで伝えられるほどであったという。
永観2年(984年)円融天皇は花山天皇に譲位した。新帝の外祖父である伊尹が既に他界していたため、頼忠はそのまま関白に留まったが、東宮には懐仁親王が立てられた。頼忠は外戚たらんと花山天皇にも諟子を女御に入れるが、花山天皇の寵愛は受けられず、やはり皇子は得られなかった。また、若年ながらも新帝の補佐役として権中納言に抜擢されて将来の大臣・関白の資格を得た藤原義懐(伊尹の五男で花山天皇の叔父)が加わった事で、更に頼忠の立場を不安定にした。こうした中で積極的に親政を進めようとする天皇及びこれを補佐する義懐と頼忠の確執は深まり、この年の12月28日に出された「令上封事詔」[7]では、「大臣重禄不諫」と書かれて頼忠以下諸大臣が天皇から糾弾される事態となっている。
兼家は懐仁親王の即位を望み、寛和2年(986年)策謀を講じて花山天皇を出家退位させてしまった(寛和の変)。幼い懐仁親王が即位(一条天皇)すると、外祖父の兼家が摂政として朝政を完全に掌握するに至り、頼忠は関白を辞職。太政大臣の官職こそは維持したものの名目のみの存在と化した。
永延3年(989年)6月26日に失意のうちに薨御。享年66。最終官位は太政大臣従一位。没後正一位の贈位を受け、駿河国に封じられた。諡は廉義公。
藤原忠平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
実頼 | 師輔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敦敏 | 頼忠 | 伊尹 | 安子 村上天皇女御 | 兼家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
遵子 円融天皇中宮 | 公任 | 懐子 冷泉天皇女御 | 義懐 | 冷泉天皇 憲平親王 | 円融天皇 守平親王 | 詮子 円融天皇女御 | 道長 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔小野宮流〕 | 花山天皇 師貞親王 | 一条天皇 懐仁親王 | 〔御堂流〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔現皇室〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注記のないものは『公卿補任』による。
注記のないものは『尊卑分脈』による。
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