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密教の経典にもとづき諸仏諸尊の集会する楼閣を模式的に示した図像 ウィキペディアから
曼荼羅(マンダラ、梵語:मण्डल maṇḍala、チベット語:དཀྱིལ་འཁོར་(キンコル, dkyil 'khor))とは、密教の経典に基づいて主尊を中心に諸仏諸尊の集会する楼閣を模式的に示した図像[1]。
密教経典は曼荼羅を説き、その思想を曼荼羅の構造によって表し[2]、その種類は数百にのぼる。古代インドに起源をもち、中央アジア、日本、中国、朝鮮半島、東南アジア諸国などへ伝わった。21世紀に至っても、密教の伝統が生きて伝存するチベット、ネパール、日本などでは盛んに制作されている。漢字による表記のバリエーションとして「漫荼羅」や「曼拏羅」、「曼陀羅」等があるが、日本の重要文化財等の指定名称は「曼荼羅」に統一されており、ここでも「曼荼羅」と表記する。
日本では、密教の経典・儀軌に基づかない、神仏が集会(しゅうえ)する図像や文字列にも、曼荼羅の呼称を冠する派生的な用法が生じた。またチベットでは、須弥山を中心とする全世界を十方三世の諸仏に捧げる供養の一種を「曼荼羅供養」と称し、この供養に用いる金銅製の法具や、この法具を代替する印契に対しても、「曼荼羅」の呼称が使用されている。
「曼荼羅」は、サンスクリット語 मण्डलの音を漢字で表したもの(音訳)で、漢字自体には意味はない。なお、मण्डल には形容詞で「丸い」という意味があり、円は完全・円満などの意味があることから、これが語源とされる。中国では円満具足とも言われる事がある。
インドでは諸神を招く時、土壇上に円形または方形の魔方陣、マンダラを色砂で描いて秘術を行う。色砂で土壇上に描くため、古い物は残っていないが、チベット仏教などでは今でも修行の一環として儀式、祭礼を行う時に描かれる。
本節では東密における曼荼羅とチベット仏教における曼荼羅を扱う。
曼荼羅はその形態、用途などによってさまざまな分類があるが、まず以下の2形態に大別される。
1に属するものは、材質面からは、以下のような形態に分類される。
また、主尊と眷属たちの形態の描写方法からは、次のように区分される[注釈 1]。
2の「供養曼荼羅」は、チベット仏教および仏教化したチベットの固有宗教ボン教に置いて「曼荼羅供養」の際に用いられる法具で、円形の銅盆1と大小の銅輪3、「勝幡」1より構成される[9][10]。
なお、チベット仏教においては立体曼荼羅は2種類に分けられる。すなわち、「自性マンダラ」と「羯磨マンダラ」である[11]。前者は瞑想によって虚空に観想したマンダラであり、ルーラキンコル(蔵: blos bslaṅ dkyil ḥkhor、智慧で立体化したマンダラ)、後者は鋳物や塑像によって実際に制作された(羯磨)マンダラであり、ランスクキンコル(蔵: laṅs gzugs dkyil ḥkhor、立体的な姿のマンダラ)と呼ばれる。これらは上述の通り、いずれも砂曼荼羅(ドゥルツンキンコル、蔵: rdul tshon dkyil ḥkhor)や布に描かれた曼荼羅(レーティーキンコル、蔵: ras bris dkyil ḥkhor)とは区別される[11]。
宗教的実践(灌頂、成就法の修習)からは、次のように分類される。
1は、灌頂の際に使用される。
2および3は、密教行者が成就法各種を実践する際に観想のうえで生起される。曼荼羅の主尊と行者が一体となる行法の舞台となる。
立体曼荼羅は、初心の行者が2を生起する際の参考資料にはなるが、灌頂の儀式や成就法の実践には使用されない。
インド密教の歴史は、5・6世紀を萌芽期とし、13世紀初頭のインド仏教滅亡までの約800年間にわたり、さらに初期密教・中期密教・後期密教の3期に区分される[12]。
初期密教:密教がインドに現れてから、『大日経』、『金剛頂経』などの、組織的な密教が成立するまでの時期。
中期密教:7世紀。初期密教の完成形として『大日経』、のちに後期密教に発展していく『金剛頂経』などが登場する時期。
後期密教:8世以降。『金剛頂経』系の密教が発展していく。
この時期の経典を、日本密教では「雑密経典」、チベット密教では「所作タントラ」に分類する[13]。本尊となる尊格や中心的テーマにしたがって文殊・観音・金剛手・不動・ターラー・仏頂、総・雑部陀羅尼などに分類される[14]。これらの経典にもとづく曼荼羅では、日本でもなじみの深い仏たちが整然と描かれている[2]。
この時期の経典を、日本密教では「純密経典」、チベット密教では「行タントラ」および「瑜伽タントラ」に分類する。
胎蔵曼荼羅を説く『大日経』系の密教が、行タントラに相当する[13]。根本タントラとして『大日経』が位置付けられ、『金剛手灌頂タントラ』や『三三摩耶荘厳タントラ』などが含まれる[15]。チベット仏教の胎蔵曼荼羅が、『大日経』の所説により忠実に描かれているのに対し[16]、日本密教では、独自のアレンジの度合いが大きい[17]。
金剛界曼荼羅を説く『金剛頂経』、『理趣経』系の密教が、瑜伽タントラに相当する[13]。『金剛頂経』は、十八会十万頌といわれる膨大な密教経典の総称をいうが、このうちの「初会(しょえ, 第一部)」のみを指す用法もある[18]。二十八種の曼荼羅を説く[19]。日本密教の「金剛界曼荼羅」は、『金剛頂経』の「金剛会品」の曼荼羅6種、「降三世品」の曼荼羅2種に、『理趣経』の曼荼羅を付け加えて「九会(くえ)」としたものである[19]。
『金剛頂経』以後に成立した後期密教の経典群[13]は、チベット仏教では「無上瑜伽タントラ」として最上位の評価を付されている[13]が、日本には一部を除き伝来していない[13]。チベットでは、さらにこれを「父タントラ(方便タントラ)」(ぶ- )、「母タントラ(般若タントラ)」(も- )、「不二タントラ(方便般若不二タントラ)」(ふに- )に分類する[20]。日本密教では胎蔵・金剛界の両部を不二とするが、チベットでは無上瑜伽に父(方便)と母(般若,智慧)をたて、これを不二とする[21]。
父タントラ(方便タントラ)は、『秘密集会タントラ』(グヒヤサマージャ・タントラ)を根本タントラとする部類と、ヤマーンタカの部類に分けられる[21]。父タントラを代表する曼荼羅には、『秘密集会』の阿閦金剛三十二尊曼荼羅、ヤマーンタカ類のうち、ヴァジュラバイラヴァ十三尊曼荼羅がある[1]。
母タントラ(般若タントラ)は、へーヴァジュラ類、ダンヴァラ類、デムチョク・アーラリ類、サマーヨーガ類などに分類される[21]。曼荼羅は、ヘーヴァジュラ九尊曼荼羅、サンヴァラ六十二尊曼荼羅などが名高い[1]。
不二タントラ(方便般若不二タントラ)には、『文殊師利真実名経』(もんじゅしりしんじつみょうきょう)と『時輪タントラ』(カーラチャクラ・タントラ)が含まれる[21]。
日本では、根本となる両界曼荼羅と、別尊曼荼羅とに大別されている。
チベット密教では、日本密教のように、大日経の胎蔵曼荼羅と、金剛頂経の金剛界系の各種曼荼羅が、突出して重んじられるようなことはない。
チベット仏教の4大宗派うち、ニンマ派をのぞく3派(サキャ・カギュ・ゲルク=サルマ派)は、プトン・リンチェンドゥプの所説にもとづき、密教の経典(=タントラ)を四分する。
ニンマ派では、寂静・忿怒百尊曼荼羅が代表的である[1]。寂静42尊と忿怒58尊から成り、両者で一対とされる[1]。 ニンマ派に特徴的な埋蔵経典を集成した『埋蔵宝典(リンチェン・テルズー)』には、埋蔵経典に解かれた曼荼羅327点が収録されている[1]。
日本では、以下のような、密教の経典・儀軌に基づく曼荼羅以外の、神仏が集会(しゅうえ)する図像や文字列にも、曼荼羅の呼称を冠して使用する派生的な用法がある。
チベットでは、「密教の経典・儀軌に基づく曼荼羅」ではない仏菩薩・歴代の論師・宗祖が集会(しゅうえ)するツォクシン(ཚོགས་ཤིན། ཚོགས་ཞིང་།)というタイプの仏画がある。仏陀から根本ラマ(རྩ་བའི་བླ་མ་)に至る師資相承の系譜を図示したもので、三世の諸仏・守護神(イダム)・護法神(チューキョン)などがこれを囲繞する。六加行法の第4次第「聖衆の世界の観想」(ཚོགས་ཞིང་གསལ་བདབ་པ་�)に置いて使用される[22][23]。
チベット仏教における供養の一種に「曼荼羅供養」があり、この供養に用いられる金銅製の法具も「曼荼羅」と称する。 この供養では、この法具「供養曼荼羅」(もしくはこれを代用する印契)を用いて、十方三世の諸仏に捧げる供物とする。
供養曼荼羅は、銅の盆と数センチ幅の直系の異なる銅輪3、左記の銅盆上に銅輪3組を用いて盛り付けるための「宝石」(または「洗米」)、頂上におく「勝利の幡」から構成され、須弥山を中心とする全世界を象徴する[24]。
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