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『秘密集会タントラ』(ひみつしゅうえタントラ、Guhyasamāja tantra、グヒヤサマージャ・タントラ)とは、仏教の後期密教経典群、いわゆる無上瑜伽タントラに分類される経典の一つである。
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後期密教経典(無上瑜伽タントラ)群の中では、最も早期に成立した『幻化網タントラ』(マーヤ・ジャーラ)に次いで成立したものとされ、成立時期は8世紀後半と推定されている[1][2]。
『秘密集会タントラ』は梵本、チベット訳、漢訳の三種が揃っている。サンスクリットによる題名は、章によって多少の違いはあるものの、「一切如来身語心の秘密中の極秘たる秘密集会という大秘密タントラ王」とあり、そこから核心である部分を採って『秘密集会タントラ』(グヒャサマージャ・タントラ)と略称される[3]。多数のサンスクリット写本が現存しているが、チベット語訳は11世紀初頭のリンチェン・サンポとシュラッダーカラヴァルマ(Śraddhākaravarma)の共訳が「チベット大蔵経」に収録されている[3]。漢訳は、11世紀初頭の施護三蔵訳『一切如来金剛三業最上秘密大教王経』(大正蔵885)があるが、世俗倫理に反する記述を当時の風俗にあわせて積極的に省略・改変した箇所や、無上瑜伽タントラの理解が浅いことによる誤訳も多く[4]、そのため抄訳として扱われ今日では学術的にはあまり高く評価されてはいない[5]。
一方、チベット仏教の最大宗派でもあるゲルク派では、宗祖であるツォンカパ大師がチベットにおいて厳しい戒律を復興すると共に、この『秘密集会タントラ』を最高の密経典として評価したこともあって、とりわけ重視されている。加えて、ネパールでは「九法宝典」(Navagrantha) の一つに数えられている[6]。
なお、「秘密集会」の意味するところについて、『秘密集会タントラ』は第十八分で「身語心の三種が秘密であり、一切仏が集合したのが集会である」と説明している。仏教学者、僧侶の松長有慶によれば、これはすなわち、秘密集会とは、日本語で一般的に連想されるところの「秘密結社」ではなく、行者の「身語心の三業と仏の身語心の三密が、一体としての集合に至る行法を説くタントラ」と解釈しうるとしている[7]。
『秘密集会タントラ』は内容的に『真実摂経』の思想の核心部分を受け継ぎ、発展させたものであるという見解は、伝統的な解釈と仏教学の見地の双方から合意されるものである[7]。また、実践的な記述についても『真実摂経』からさらに発展したものとなっている。これらのことと、7世紀中頃には『真実摂経』の核心部分が成立していたとされることから、『秘密集会タントラ』の成立はそこから少し下った年代であったようである[8]。なお、松長は『インド後期仏教 〔上〕』において、『秘密集会タントラ』の成立を4世紀から5世紀ごろとする「漢訳の資料を無視するインドや欧米の学者」による説を紹介したうえで、この説に異議を唱えている[8]。松長自身は、ジュニャーナパーダの活動年代とそのテクストから、この経典が8世紀後半ごろにはほぼ現存する形になったとする見解を示している[2]。
『秘密集会タントラ』は、その後、次々と生み出されていくことになる後期密教経典群(無上瑜伽タントラ)の皮切りとなる経典(タントラ)であり、後期密教の始まりを告げる記念碑的な位置付けを持つ。
その内容は、下述するようにそれまでの仏教の戒律をことごとく破棄するかのごとくであり、そのため非常に衝撃的なものであるかのような印象を伴い、その一部は反社会的ですらあるとみなされている。また、密教の側でも貪・瞋・痴の三毒(三煩悩)も悟りへの原動力とみなし、それぞれが有効性を持つとする立場を一貫させていることから[注釈 1]、論理的な説明や弁解を行われることはなかった[10]。
かつてのチベットにおいても同様の問題がおこり、そのためツォンカパ大師や当時の大成就者等は、後代に誤った訳に基づく安易な実践に進むことがないように、前段階として戒律や顕教といった枷をはめたり、書かれていることをそのまま実際の行動に移さず、あくまでも観想でのみ行うよう戒めるといった安全策を併用して、密教を学ぶために最低限必要な三昧耶戒の厳守と、無上瑜伽タントラの正しい理解に基づく様々な制限を設ける必要が生じた。
なお、現在の日本語訳に限っていえば、その内容にも反映されている通り『秘密集会タントラ』(及びその後の後期密教経典群)は、(インド仏教内の対ヒンドゥー教改革(=習合+庶民化改革)としての密教化の文脈の果てに)インド社会の底辺にいる人々(あるいは、脱社会的な人々)を、仏教信者として取り込むべく、彼らが日常的に行なっていた生活習慣・儀礼・呪法を摂取し、それらに仏教的意味づけを施す(そして、観想法として昇華させる)目的で編纂されたと推察される[11][12]。
ただし、その内容形成と編纂は、特定のグループによって一挙に体系的に行われたわけではなく、各種の瑜伽(ヨーガ)を実践していた様々な行者グループの観法が寄せ集められ、『秘密集会タントラ』の名の下にまとめられたに過ぎない。そのため、いくつもの瑜伽観法や曼荼羅が列挙されており、観法の統合に失敗して矛盾した内容になっていたり、重複・欠陥があったり、曼荼羅の諸尊のどれかが欠落したり、配列の前後関係に齟齬があったりと、統一性・一貫性を欠いた箇所が少なくない[13][注釈 2]。
そのため、その解釈と実践に当たっては、下述するように、いくつかの流派が生じることになった。
『秘密集会タントラ』(及びその後の後期密教経典群)は、それ以前の経典の内容と大きく色彩を異にするが、そこに通底するテーマである「欲望を否定しないことや、世俗の積極的な活用」が、それ以前の仏教経典に全く見られなかったかと言えば、そういうわけでもない。
代表的なものとしてよく言及されるのが、『大般若経』及び『真実摂経』(『金剛頂経』)第六会の一部としても知られる『理趣経』である。また、『維摩経』も、在家者の観点から、教条主義的な欲望否定にこだわる戒律絶対主義者を嘲笑し、欲望を否定しないで涅槃を求める方向性を示そうとしている[15]。
このように、「欲望を否定しない」という側面は、大乗仏教の初期から(一部であれ)孕まれており、『秘密集会タントラ』(及びその後の後期密教経典群)は、その発展形と位置付けることもできなくはない。
また、チベット仏教の高名な学僧であるプトゥンは、この『秘密集会タントラ』を、『真実摂経』(『金剛頂経初会』)の「続タントラ」と位置づけたが、確かに、観法における五部族の組織、曼荼羅の中核をなす五仏の構成(ただし、中心は大日如来から阿閦如来へと交代している)、印契(ムドラー)が「大印」(マハームドラー:正しくは「大身印」。ここでは女性パートナーのこと)に置き換えられるなどは、既に空海の師である恵果阿闍梨の監修による現図曼荼羅の『理趣会』に描かれ、真言宗の伝統的な現図曼荼羅の解説にも述べられているように、『真実摂経』と『秘密集会』の両経典は密接に関係し、後のインド後期密教における『金剛頂経』群においては『秘密集会タントラ』が『真実摂経』(『金剛頂経初会』)の継承・発展的な位置にあることは間違いない[16]。
なお、8世紀中頃の不空訳『金剛頂経瑜伽十八会指帰』には、18種の瑜伽法や経典が挙げられており、その第十五会には「秘密集会瑜伽」に関する極めて簡単な記述があるが、これは『秘密集会タントラ』で言えば、第五分の一部に相当する。無論、この時点ではまだ『秘密集会タントラ』は未完成の段階だったと考えられるが、このようなところからも、両経典のつながりを見出すことができる[16]。
18の分(章)から成る。
チベット語訳では、第一分から十七分までを「根本タントラ」、十八分を「続タントラ」として区別する。また、ここに更に補足的な「釈タントラ」を付属させることも少なくない。
また、第一分から第十七分(「根本タントラ」)の部分は、内容・外形的に、第一分から第十二分までの「前半部」と、第十三分から第十七分までの「後半部」に分けることができる。「前半部」と「後半部」は内容的にかなり異質であり、「後半部」は記述量も数倍に増す。
なお、第十八分では、(第一分と第十八分を除く)諸分の分類は、
と説明される。
全18分は以下の通り[18]。
『秘密集会タントラ』は、文字通り、一切の如来・菩薩が会する場で「秘密にされてきた真理の集成」が説かれるという体裁を採っている。なお、チベットではこの経典の内容を象徴し、具現化したと見られる密集金剛(グヒヤサマージャ)という尊挌(歓喜仏)が、本尊として仏像や立体曼荼羅、タンカ(仏画)等の仏教美術の題材とされることもあるが、この経典自体には、そのような仏は現れない。
上述したように、『秘密集会タントラ』は、(『金剛頂経』を引き継ぐ原初的なテキストに基づく、あるいはそうした原初的な集団から派生した)様々な類似グループの説・行法の寄せ集めであり、重複や齟齬、順序の混乱が散見され、丁寧に編纂されたとは言い難い。しかし、内容的に全くバラバラというわけではなく、一応は一定のまとまりが維持されている。
第一分から第十二分の「前半部」では、比較的短い文で、観法・儀則の概要が述べられる。それに対して、第十三分から第十七分の「後半部」では、文量が増え、記述が詳細になる一方、儀軌類にありがちな呪術に関する記述が頻出するようになる。そして、最後の第十八分(続タントラ)に至って、それらの乱雑な内容を補足すべく、疑問点の解消や解説の記述に徹するのである。
内容を特徴付ける主な言葉・概念を挙げると、以下のようなものがある[19][20]。
こういった従来の顕教、あるいは世俗の社会倫理では忌避されてきたものを、真理の反映の過程として取り上げ、三昧の上においてはむしろ徹底的に享受・摂取することが、(その優越性・究極性を強調されつつ、)全面的に象徴化がなされ、それを肯定し推奨されて、現実の如く具体的に観想することが必要とされる。
ちなみに、「大印」(女性パートナー)は、言うまでもなく、「愛欲」(性理的瑜伽、二根交会)の象徴として文中に現れるが、その尊様の指定は、
といった具合にバラつきがある。
これらの言葉・概念と、
といった言葉・概念などが関連付けられつつ、観想法(成就法)・儀則が述べられていく。
上記のような非倫理的ないしは非戒律的(破戒的)な振る舞いについての記述は、観想上で行うものと解釈できる部分も少なくないが、例えば、第十二分の「五肉供養」のくだりでは、
あらゆる肉が手に入らねば、あらゆる肉を観想によって生ずべし。
と書かれており、このように、明らかに現実の実際的な振る舞いを求めているとしか捉えようのない部分もある 。そして、実際に中世のインドやチベットでは記述された内容を鵜呑みしてしまい、「性的ヨーガ」等が現実に実践されてきた例もある。また、タントラの「後半部」には「呪殺法」とも解釈され得る『調伏法』の様々な呪術の記述が頻出する点(古来から密教の儀軌類には普通に登場する記述)も併せて考えると、正しい理解と資格を伴った専門家が少ない創成期においては、これらの記述が単なる観想上でのみに留まっていた蓋然性はそれほど高くないと考えられる。
『秘密集会タントラ』の意図・目的の一端が、あるいは瑜伽行者における体験を通じたその挑発的・価値転倒的な姿勢が、瑜伽行の唯識や密教の「転識得智」(てんじきとくち)を基として端的かつ象徴的に描かれている章が、第五分と第九分である。
第五分では、
といった文言が説かれ、それに反発した菩薩(摩訶薩)たちに対して、
とダメ押しの文言が告げられ、菩薩たちは恐れおののいて卒倒してしまう。(しかしすぐさま蘇生され、一転して賛嘆の言葉を発し、章は終わる。)
この内容から、安易な理解によると『秘密集会タントラ』が、インド社会の底辺にいる人々や、「虐げられた」人々を対象にし、彼らを中心に伝統的な仏教教義を反転・再編成することを意図したものであると見てしまう。こうした意図に沿って理解すれば、背景としては庶民を糾合して台頭してきたヒンドゥー教に対して劣勢に立たされた仏教界が、対抗的にヒンドゥー教の要素や様々な民間信仰・呪術を取り入れ、改革を行っていった「密教化」の流れの成れの果て、といった説明がよくなされる。しかし実際には当時のインド全体でタントラ思想のムーブメントが覆っており、その一端が仏教界にも表れたというだけに過ぎない。また一方で、俗語混じりのタントラの文章から、そもそもタントラを形作ってきた人々自身が、社会的にそれほど高くない層に属していたとも考えられる[11]。
第九分では、
ことなどが説かれ、これまた第六分の場合と同じように反発した菩薩(摩訶薩)たちに対して、
といったことが説かれ、菩薩たちは驚きの目を見開く。(そして賛嘆の言葉を発し、章は終わる。)
この第九分においては、非倫理的な振る舞いの推奨が、仏教教義と明確に結び付けられ、合理化されて説かれている。
この第九分ほど明確ではないものの、『秘密集会タントラ』では、ところどころに「自性清浄・虚空・不生・無我・平等性・無分別(離分別)」といった類の似通った文言・主張・ほのめかしが散りばめられている。
『秘密集会タントラ』成立後のインドでは、その実践を巡って、いくつかの流派が生じた。
主なものは五流あったとされるものの、なかでも特筆すべきは以下の二流派である[21]。
なお、ツォンカパを祖とするチベット仏教の最大宗派であるゲルク派は、後者の聖者流を採用・継承している。
以下、『秘密集会タントラ』に基づく修行実践の概要を、ゲルク派の聖者流を例に述べていく[22]。
まず、『秘密集会タントラ』を含む、各種のタントラに基づく後期密教の修行は、
の2段階に分けられる。
1は文字通り、2に向けた導入・準備的な修行で、観想による曼荼羅の生成・操作によって心身を修養するものであり、中期密教の観想と類似している。2は後期密教に特有な修行法であり、「チャクラ」理論的な身体観に基づき、身体に影響する呼吸コントロールを積極的に行う。ハタ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガと近親関係にある。
両者は本来、全く別の経緯で成立したものであり、チベットにおいても元はどちらか一方のみが行われており、とりわけ2に関心が集中しがちで、1は軽んじられる傾向にあったが、ツォンカパによってひとまとめに体系化された[23]。
なお、この修行、特に究竟次第を重ねていくと、光明を見る、身体浮遊の感覚にとらわれる、超能力に目覚めるといった神秘体験を生ずることがあるらしいが、チベット仏教界では宗派を問わず、そういった神秘体験はあくまでも修行の到達段階の指標となるに過ぎず、悟りとは関係無いので、過大視しないよう諌める見解を採っているという[24]。
ちなみに、下述するように、1や2に進むためには、灌頂(かんじょう)による制限がかけられている。灌頂についての説明は、タントラ内の第十八分においても成されている。
チベット密教の灌頂(かんじょう)には、以下の4つがある[25]。
(※「大印」(女性パートナー)については、インド及び初期のチベットにおいては実際に性行為が行われていたらしいが、ツォンカパ以降のゲルク派では、「性欲を完全に克服できる段階に達しているなら、実際の女性を相手に実践して構わないが、そうでないなら、あくまでも観想でのみに留めるべきであり、その原則を侵すなら、堕地獄の苦行が待っている」という扱いだという[26]。)
なお、「生起次第」に進むには、1の灌頂が必須とされ、「究竟次第」に進んだり、密教指導者になるためには、2から4の灌頂が必須とされる。
ツォンカパの『吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第』には、生起次第の49のプロセスが記されている。
なお、その49次第と、観想法の段階的分類との対応は、以下のようになる。
全49次第の概要は以下の通り[27]。
この生起次第では特に、次の究竟次第に向け、観想の能力を高めるべく、じっくりと曼荼羅と諸仏を描き、次にそれを一挙に描けるようにし、次に微細な曼荼羅・諸仏も同じように一挙に観想できるようにする、更に一歩進んで、修行者自身の鼻やリンガ(陰茎)の先端(もしくは尿道)、ヘソや心臓に、微細なティクレ(精液)や文字を観想し、その中に曼荼羅・諸仏を生成するといった、粗・微細な瑜伽(ヨーガ)を習得することが重要とされる[28]。
(※究竟次第は、身体(特に血流)に影響を与える観想(イメージ操作)や呼吸コントロールを積極的に行い、仮死状態ないしは意識混濁状態・恍惚状態を生み出すものであり、興味本位で真似するのは非常に危険なので、注意してもらいたい。)
究竟次第に関しては、まず、その前提となっている、インド古来のチャクラ理論をベースとした身体論を理解しておく必要がある。
この身体論では、
といった内容が想定される。
したがって、チャクラの脈管の結び目をゆるめ、「風」(ルン)を心臓のチャクラの奥にある「不壊の滴」(ミシクペー・ティクレ)に送り込んで溶融できれば、通常は死んで初めて到達できる根源的意識に、生きながらにして到達できるようになる。そうして様々な根源的境地・感覚を得ること、それこそがこの究竟次第において目指されるものである[29]。
究竟次第は、以下の段階に分類される。簡単な概要のみ併せて記す[30]。
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