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愛媛県、忽那諸島にある島 ウィキペディアから
怒和は、鎌倉時代の古文書にも見られる古くからの地名である。康応元年3月に足利義満が安芸国厳島神社を参拝した際の記録に、安芸国蒲刈島に向かう途中「ぬわ」以下の島々が見えるとある(鹿苑院殿厳島詣記)。[2]
元々は倉橋島から島の北部に移住したのが始まりといわれる[3]。当初は一つの集落であったとみられるが、天正13年小早川軍に攻略され、また冬の季節風の影響を避けるため、何時の頃からか(江戸時代初期には既に2村に分かれていたという<[2]>)移り住み[注釈 1]、島の東には上怒和、西に元怒和の2つの集落ができた。離島航路がそれぞれに寄航している。2つの集落は愛媛県道206号上怒和元怒和線にて結ばれている。以前には元怒和に神和村の役場があったため、商店なども数軒ある。
小中学校共に休校ないし廃校となっており、島内にはなくなっている。
時期不明ながら倉橋島から移り住んだ。
藩政期は大洲藩領。
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