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嵩山宿(すせじゅく)は、三河国八名郡嵩山(すせ。現在の愛知県豊橋市嵩山町)にあった宿場。明和元年(1764年)に江戸幕府の道中奉行により、東海道に付属する街道の1つである本坂通(姫街道)の宿場とされた。三河吉田藩領にあった。
嵩山宿は、浜名湖北岸の三ヶ日宿から西へ向かい、弓張山地(湖西連峰)の本坂峠を越えた所(本坂トンネルの西側)の、国道362号と平行した北側の旧道(姫街道)沿いに位置している。
部落の西端に61.97メートルの水準標があり、部落の海抜は70メートル前後で、本坂峠(標高330メートル以上)までは250メートル以上の登り道になっている[1]。
嵩山宿から西へ向かうと和田辻に至り、和田辻から西へ進めば御油宿、南へ進めば牛川地区を通り朝倉川(境橋)を渡って吉田宿である。
嵩山(すせ)は、1751年(寛延4年)の『東海道巡覧』[2]では「吹瀬」の字があてられており、1907年(明治40年)の『大日本地名辞書』[3]では「嵩山 又嵩瀬に作る」とされている[4]。
宝永4年(1707年)の宝永地震で、地震と津波の被害により、東海道の浜名湖の今切の渡しが通行できなくなり、大名行列などが本坂道を通るようになった。
人馬継立の急増のため、嵩山の民衆は領主である吉田藩へ通行の差し止めを願い出た。また、江戸幕府の道中奉行所にも同様な訴えを行った。幕府は訴えを受け、本坂通の通行を禁じた。しかし、浜名湖今切の水上の通過を嫌う旅人は、本坂越えをやめなかった。したがって、幕府は本坂街道の通行を追認せざるを得なかった。
明和元年(1764年)、幕府の道中奉行所は市野宿・気賀宿・三ヶ日宿と共に、嵩山宿を正式に宿場と認めた。これ以降は、大名行列が通行すると正式に人馬の継立を行うようになった。
江戸幕府が宿場として指定した後も、嵩山宿の規模は小さなものだった。
天保14年(1843年)の「本坂通宿村大概帳」によると、嵩山宿は、人数580人、家数130軒、本陣1軒、脇本陣・旅籠無し、という規模で、本陣といえども名主の屋敷を兼用したもので、問屋場(といやば)は定まった所は無いため、重要な通行のある場合のみ農家を問屋場として使用していた、とされている。
その後、幕末には本陣のほかに11軒の旅籠があったとされている。
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