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江戸時代中期の大名。島津氏23代。薩摩藩6代藩主。従四位上、薩摩守、左近衛中将。島津継豊の長男 ウィキペディアから
正室はなし(婚約者に尾張藩主・徳川宗勝の娘・房姫)。幼名は益之助、又三郎。初名は忠顕(ただあき)、のちに8代将軍・徳川吉宗より偏諱を賜い、宗信に改名。官位は従四位上、薩摩守、左近衛中将。
享保13年(1728年)6月、5代藩主・島津継豊の長男として生まれた。母は側室・於嘉久(渋谷氏)。仁徳者として知られた伊集院仁右衛門の教育を受ける。若年時より才気煥発で将来を嘱望された。元文4年(1739年)12月、従四位下侍従を叙任し、松平薩摩守を称した[1]。延享3年(1746年)11月、父・継豊の隠居により家督を継ぎ、藩主となった。同年12月、左近衛少将に叙任している。寛延元年(1748年)12月、従四位上左近衛中将に叙任した。
寛延2年(1749年)、膝の痛みを発症し、夏季の旅は困難であるため3月に江戸を発ったが、その途中に浮腫を発症する。5月18日に鹿児島に着いたが、その後も症状は悪化し、父に先立って同年7月10日、22歳で死去した[2]。戒名は慈徳院殿俊厳良英大居士。後を弟の重年が継ぐこととなった。維新後の神号は弥広慈徳彦命。
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