岐阜髙島屋
閉店した百貨店 ウィキペディアから
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岐阜髙島屋(ぎふたかしまや)は、岐阜県岐阜市日ノ出町にあった百貨店。大手百貨店・株式会社髙島屋の連結子会社である株式会社岐阜髙島屋が運営していた。
岐阜髙島屋 Gifu Takashimaya | |
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金華橋通りから見た岐阜髙島屋(2020年4月) | |
地図 | |
店舗概要 | |
所在地 |
〒500-8525 岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目25番地[1] |
座標 | 北緯35度25分6.4秒 東経136度45分27.6秒 |
開業日 | 1977年(昭和52年)9月23日[2] |
閉業日 | 2024年(令和6年)7月31日[3] |
建物名称 | 平和ビル[4] |
土地所有者 |
株式会社平和ビル(敷地4,120m2のうち955.53 m2) など[4] |
施設所有者 | 株式会社平和ビル[4] |
施設管理者 | 髙島屋ファシリティーズ[広報 1] |
敷地面積 | 4,120 m²[4] |
建築面積 | 3,112 m²[4] (建蔽率76%) |
延床面積 | 35,850 m²[4] |
商業施設面積 |
16,870 m2[2] ↓ 26,117 m²[広報 2] |
営業時間 | 10:00 - 19:00 |
商圏人口 | 100万人(開業当時[1]) |
最寄駅 | 岐阜駅・名鉄岐阜駅 |
最寄バス停 |
岐阜バス 柳ヶ瀬、金華橋通り柳ヶ瀬 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 〒500-8525 岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目25番地 北緯35度25分6.4秒 東経136度45分27.6秒 |
設立 | 1974年(昭和49年)8月28日 |
廃止 | 2024年(令和6年)8月31日 |
業種 | 小売業 |
法人番号 | 7200001006713 |
事業内容 | 百貨店事業 |
代表者 | 代表取締役社長 橋本逸郎 |
資本金 | 5000万円(2023年2月期) |
売上高 | 61億9100万円(2023年2月期)[5] |
営業利益 | 8,800万円(2023年2月期) |
経常利益 | 9,300万円(2023年2月期) |
純利益 | △3,100万円(2023年2月期) |
純資産 | 19億9600万円(2023年2月期) |
総資産 | 64億9000万円(2023年2月期) |
従業員数 | 177人(2023年8月末時点) |
決算期 | 2月末日 |
主要株主 | 株式会社髙島屋100% |
外部リンク | 岐阜タカシマヤ - ウェイバックマシン(2024年3月1日アーカイブ分) |
特記事項:上記は『連結子会社における店舗の営業終了および同社の解散に関するお知らせ』[広報 2]による。 |
当時、岐阜市最大の繁華街であった柳ヶ瀬地区(柳ヶ瀬市街地再開発地区)の再開発の発端は、1969年5月10日に旧防災建築街区造成法により「柳ヶ瀬第三防災建築街区」(面積5.4300ha)の指定を受けたことによる[9]。
これ以後、旧岐阜劇場など[10]地区内周辺に映画館などを保有する地権者だった[9]岐阜土地興業が[11]中心となって建物の共同建築化の計画が進められた[9]。当初は東西2つのブロックが別個の組織で話し合いを進めていたが、ビル経営の採算上から大規模ビルを建築することに計画を変更し、2ブロックを合併して1つの工区の組合として進めることとなった[9]。具体的な着手は1973年(昭和48年)で、防災建築街区造成事業として出発し、同年8月22日に権利者によるビル保有会社「株式会社平和ビル」を設立登記し[12]、1974年(昭和49年)5月23日に地鎮祭を行った[13]。
ビル建設当初は西武百貨店の出店の話もあったが[14]、同年8月に[15]ヤナゲンが70%・髙島屋が30%を出資して資本金1億円で「株式会社 ヤナゲン高島屋」を設立[10]。
1975年(昭和50年)11月12日に高度利用地区指定と[13]都市計画決定により「柳ヶ瀬防災建築街区造成組合」(日ノ出町・金町)の事業を継承する「柳ヶ瀬第一種市街地再開発事業」へ事業を切り替え[4]、1976年(昭和51年)3月27日に「柳ヶ瀬市街地再開発組合」を設立認可(3月30日公告)[4]、同年4月30日に「柳ヶ瀬市街地再開発組合」を創立した(6月30日公示)[4]。
同年7月19日に「株式会社 ヤナゲン高島屋」が売り場面積約20,767m2で届け出を行ったが[16]、開店が遅れた影響もありヤナゲンは同年10月に出店を断念した[11][16]。その後、髙島屋はビルの建設を進めていた岐阜土地興業との共同での出店に切り替え[11]、同社と折半出資の「岐阜髙島屋」となり[17]、同年10月8日に同社を平和ビルのキーテナントに正式に決定した[4]。
なお、当初の計画では18,000m2を岐阜髙島屋が占有し、3,000m2をその他の一般事業者が使用、残りをパブリックスペースに割り当てる予定だった[18]。お膝元の岐阜柳ケ瀬商店街振興組合連合会は客足の繋がりを期待して岐阜髙島屋の要望した18,000m2の売り場面積を了承したが[18]、駅前商店街を中心とする岐阜市商店街振興組合のクレームにより売り場面積は16,000m2に減らされている[19]。
1977年(昭和52年)9月22日に竣工し[4]、翌9月23日に「岐阜髙島屋」が開店した[1][14]。当時の『岐阜日日新聞』(現:岐阜新聞)は「当日はファンファーレが鳴り、千個の風船が飛び、3個のくす玉が割られ、開店前に並んだ千人がなだれ込んだ。初日は12万人の来場があり、売上高は1億5千万円に上った。」と報じている[14]。
開店当時は、1階と2階には天井高7.2mの吹き抜け構造のピロティとなっていて、周囲に幅4mの小川がある公開空地「バラの広場」があり、美術展やコンサート、地元芸能など様々な催事を行う場所としていた[1]。「バラの広場」は一般公募による命名である[1]。再開発ビルが2つのブロックに跨って建設されたため、ブロック間の市道は廃止されたが、廃道となった道路機能はピロティ構造によってそのままの位置で通路として確保されていた[9]。また、廃道敷と同面積をビル東側に交換取得して、既存道路を拡幅する形で幅12mの歩行者用通路を確保している。これら通路と道路の間の約1,500m2が総合設計制度による公開空地となっていた[9]。
当初は、本格的な都市百貨店を標榜して開業し、岐阜市外を含む広域からの集客を目指していた[2]。ところが、開業初年度から休日こそ買い物客でにぎわうものの平日は閑散とした状態に陥った[20]。そのため、当店は高級品を販売する店舗というイメージの修正を図り、エスカレーター付近でワゴンセールを始めたほか、商品を高く積み上げる陳列方法も導入し、下駄ばきで来てほしいとアピールしたほか、外商担当者を当初の5名から30名に増強して、売上の確保を目指した[21]。
岐阜市内の大型店の合計売上高も、前年同期比で約26%の伸びにとどまって、同じ柳ヶ瀬地区に店を構えていた当時の地域一番店だった岐阜近鉄百貨店は前年同期比で約11%減と二桁落ち込むことになった[20]。また、当店への来店客が店内のレストランで飲食してしまったことから近隣の飲食店の売上も伸びず[20]、少し離れた徹明通や真砂町・昭和町などの衣料品店・宝飾店などでは売上不振から飲食店などへ転業する店舗が相次ぐことになった[21]。
最盛期となった1991年(平成3年)には売上高約249億円を上げたが[22]、ブランド品目当てなどの理由で[23]2000年(平成12年)3月15日に開店した[広報 3]同じ髙島屋系の「ジェイアール名古屋タカシマヤ」などに行く客が増えたり[23]、郊外型の商業施設との競合も激化したことから[22]、2000年代には売上高が200億円を割り込むことになった[24]。
1999年(平成11年)4月26日、近鉄百貨店傘下の株式会社京都近鉄百貨店が岐阜近鉄百貨店の閉鎖を決めた際、柳ヶ瀬地区の集客力低下もあり、当店に関しても閉鎖のうわさが出るような有様だった[25]。
「(初代)岐阜髙島屋」は期間損益では黒字を計上していたが[26]、大幅な債務超過に陥っていた[27]。髙島屋は地方都市で展開する子会社百貨店に対して無利息または低利で融資を行っており、グループ経営の足枷となっていた[26]。髙島屋はバブル崩壊後の消費不況での生き残りと新宿髙島屋出店を成功させるため、子会社の合併による財務体質の強化を目論み[28]、1995年(平成7年)9月1日に横浜髙島屋、岐阜髙島屋、泉北髙島屋、岡山髙島屋、米子髙島屋の5社を吸収合併して[29]横浜髙島屋以外の4社が抱えていた累積損失約177億円の一掃を図った[28]。これにより「岐阜髙島屋」は「髙島屋岐阜店」となった[30]。
2004年(平成16年)4月1日[31]、髙島屋は経営合理化を目指して髙島屋岐阜店を完全子会社の「(2代目)岐阜髙島屋」として分社化した[24]。同年5月12日に都市再生特別措置法に基づく都市再生緊急整備地域として「岐阜駅北・柳ヶ瀬通周辺地域」が指定され[32]、同年10月22日に岐阜髙島屋が入居する平和ビルに対して都市再生特別地区(日ノ出町2丁目地区)の都市計画決定が告示され、特例措置適用により容積率が高度利用地区内の800%から最高限度1,000%に緩和された[33]。これにより、同社は2005年(平成17年)に公開空地「バラの広場」を店舗へ転換する改築を実施して[24]売り場面積を18,787m2から20,390m2に増床させ、同年10月1日にリニューアルオープンした[34]。また、衆楽館跡地に建設された岐阜髙島屋別館へ2006年(平成18年)12月1日に[広報 4]無印良品を入居させるなどの対策を打ち[24]、いったんは売上高を200億円台に回復させた[24]。しかし、その後も若い人の百貨店離れや既存客の高齢化などの影響で再び売上が漸減傾向となっていった[24]。
2018年(平成30年)7月1日に「ふるさと納税特産品贈呈に関する協定」を締結[広報 5]。同年11月2日に岐阜県・岐阜市・岐阜商工会議所と株式会社岐阜髙島屋の間で地域活性化に関する包括連携協定を締結し[広報 6]、古田肇岐阜県知事がテナント招致にも協力するなど地元政財界の支援・協力も受けた[24]。また、採算確保のための複数回の家賃減額交渉により[24]、大家側は採算が取れない水準まで家賃減額を行って支援をした[35]。
ヤナゲンが2019年(令和元年)8月31日をもって大垣本店を閉店し[36]、以降は岐阜県内で唯一の百貨店となった[37]。
だが、2019年(令和元年)から2023年(令和5年)にかけて従業員を約50人削減したものの[24]、2023年(令和5年)2月期には(従来基準の)売上高が約131億5700万円を確保したものの純利益は3100万円の赤字に転落し[広報 2]、2024年(令和6年)2月期も赤字の継続が見込まれる状態となった[24]。
また、建設から46年を経て設備の老朽化が進み、その更新投資に約32億円の投資が必要と見込まれたが、採算ラインを割り込む水準まで家賃減額を行っていたことから、大家側は現状の家賃のままでの更新投資は困難として交渉が決裂した[35]。その結果、親会社の髙島屋は2023年(令和5年)10月13日開催の取締役会で、2024年(令和6年)7月31日をもって髙島屋岐阜店の営業を終了するとともに、岐阜店を運営する株式会社岐阜髙島屋も同年8月31日に解散することを決議した[広報 2]。
前述の通り、2024年(令和6年)7月31日をもって髙島屋岐阜店は閉店し[3]、岐阜県は山形県、徳島県、島根県に次いで国内4番目の百貨店がない都道府県となった[38][39]。なお、外商顧客はジェイアール名古屋タカシマヤに引き継がれるほか[40]、岐阜市に同店の出張店舗の新設を検討していると報道され[41]、同年9月2日にはJR岐阜駅の商業施設「アスティ岐阜」2階に外商顧客を対象とする「タカシマヤメンバーズサロン」を10月14日予定で新設すると発表した[42]。
なお、2つの別館で営業する店舗のうち、南側別館に入居する衣料品店「岐阜高島屋パパス・マドモアゼルノンノン」は「パパス・マドモアゼルノンノン岐阜店」に改称して営業を継続し、隣の喫茶店「井ノ口珈琲スタンド 金神社前店」も営業を継続する[43]。また、北側別館に入居する「無印良品 岐阜高島屋」は「無印良品柳ケ瀬店」に改称して同年9月1日にリニューアルオープンし、本館に入居していた和菓子店・恵那川上屋も、無印良品柳ケ瀬店内で「恵那川上屋 栗市栗座 柳ケ瀬店」として営業を継続する[44]。
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