生涯
生年不詳だが、名前の「興」の字は大内義興に由来する[1]ものであることから、この頃から存命しているものと推測される。但し、この頃には特に活動はみられない。
大永2年(1522年)10月、須々万八幡宮(飛龍八幡宮)に太刀を奉納し、天文16年(1547年)の『須々万八幡宮文書』に代官として名を連ねている。
弘治2年(1556年)から始まる毛利元就の防長経略を防ぐために、嫡男・隆次、江良賢宣[2]、勝屋興久[3]、宮川伊豆守、郷村の一揆らと共に須々万沼城に篭城。同年4月20日からは熊谷信直、9月22日からは毛利隆元率いる毛利軍の攻撃を度々退けたが、翌弘治3年(1557年)2月19日からは毛利元就自ら軍勢を率いて攻撃を始め、沼に蓆を浮かべ、火縄銃を初めて戦闘で使用して総攻撃を行った。須々万沼城の城兵はよく防戦したが、江良賢宣・宮川伊豆守らの降伏や城兵の士気低下、逃亡により3月2日に須々万沼城は開城した。なお、長期戦の最中、興盛の妻が篭城中の夫を慕い、城の周囲の沼を渡り訪ねたという逸話がある。
元就は山崎興盛父子の善戦を賞賛し助命しようとしたが、興盛は元就に検使を乞い、断乎として志を曲げなかったので、元就は仕方なく検使として井上就重と児玉就方を遣わし、興盛は隆次と共に須々万沼城麓の本条という場所において3月3日に自害した。元就は興盛父子の首実検をした後、陶氏の菩提寺である都濃郡長穂の龍文寺に丁重に葬り、法要を営んだ。墓碑は山口県周南市須々万の山口県立徳山高等学校徳山北分校裏の畑にある。
次男の鶴千代丸は14歳だったため龍文寺で切腹したが、三男で11歳の和泉丸は落ち延び、富田山奥に出て農民の藤井某のもとに隠れ住んだ。その後、富田の建咲院が先祖の建立した寺であると知り、尋ねて後に三世の宗喜和尚に養育された。21歳の時、富田政所の田中家に世話をされて後、大庄屋となった。子孫の和泉屋儀兵衛の時、天明5年(1785年)に富田新開作(旧新南陽市の和泉屋開作)の築立に成功する。
脚注
参考文献
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