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局(きょく、つぼね)
名称の由来の一説として、6世紀に出羽三山修験道を開いたとされる蜂子皇子にちなむ伝説に基づくとされているものがある。皇子は日本海を北上して鶴岡三瀬に上陸し、八人の乙女と三本足のカラスに導かれて羽黒山に着いた話が定説となっている。しかし、当地に伝わる皇子伝説では、皇子が上陸したのは酒田市日和山公園対岸の宮野浦であったとされている。付き人の女性、いわゆる「局の方」と一緒に最上川に沿って羽黒へ向かったが、お供の「局」は途中、この地に留まり「庵(いおり)」を結んで開村したことから「局」の地名誕生のもととなる。
地元の郷土史に詳しい石井正三は、
この由来は局村の今井徳右衛門家に伝わる1870年(明治3年)の文書に記される。またの伝えに付き人の『局の方』は、羽黒へ行く途中、病に倒れて亡くなり、この地に祭られた。さらに皇子は修験の山を開き、女人禁制と定め、羽黒へ連れて行く訳にはゆかず、単身入山した伝えもある。その伝説の発祥は、集落に古くから皇子と局を祭る『皇太神社』が基を成している。いつの時代にか史実めいた物語として伝わった。定説は乏しく、鶴岡三瀬の皇子とともに語られることが好ましい
と語っている[5]。また、山形県文化財保護協会文化財専門委員の佐藤昇一は、
1691年(元禄4年)の絵図には局村の地名が既に記されており、かなり古くから集落が存在したらしい。さらに隣の門田村との間には『小局』という地名も見え、伊勢神宮から分霊した社を祭ったことで『おせど』とも呼んだ。当初は新潟から訪れた村上一族が住み着き、後に局村に移住している。そして局や皇子ゆかりの神社に信仰を寄せ、地名も大切に守り伝えたと推測する
と語っている[5]。
局の方が住んだ庵(いおり)はのちに、円玉山・浄善寺という寺に代わる。鎌倉期に作られた聖観音立像を祭ったことから「局の観音堂」とも呼ばれ、戦国時代に余目を支配した安保(あぼう)氏の戦勝祈願で栄えた。しかし、1601年(慶長6年)、最上義光の攻撃に遭って、お堂は消失したが、観音像は難を逃れ、今現在も局集落のルーツを探る貴重な仏像として保存されている。
また、名称の由来の別説として「局」とは狭くて低い土地を指すとされ、「局地」や「窪地」といった意味が含まれる地形地名説があるともいわれている。
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