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日本の氏族 ウィキペディアから
小寺氏は、赤松氏の祖である赤松頼範の四男将則を遠祖として、将則の曾孫宇野頼定(うのよりさだ)の次男
嘉吉元年(1441年)、赤松満祐が足利義教を殺害し、嘉吉の乱が起こった。満祐は京都の自邸を焼き払い、播磨に下国し坂本城に籠城した。この事変に際し、小寺氏も宗徒八十八騎の一家として参集したことが『赤松盛衰記』にみえている。このとき小寺景治の孫である
職治の子・
応仁の乱をきっかけとして、世の中は下剋上が横行する戦国時代となり、赤松家中では守護代浦上氏の台頭が著しく、守護の赤松氏を凌ぐほどになった。この時、小寺政隆は赤松氏に属して浦上氏と戦い、享禄2年(1529年)庄山城で討死した。またこれに先立って永正17年(1520年)、則職が美作国岩屋城を襲撃させられているが、小寺軍は浦上村宗の重臣宇喜多能家に撃退されている。このように小寺氏は、備前の浦上氏や東播磨の別所氏のように独立志向の高まる赤松重臣の中でも主家赤松氏に従って行動している。政隆の死後、御着城に移った則職は播磨国内での数々の戦いを制して勢力を拡大し、西播磨の有力勢力に成長した。特に則職は天文14年(1545年)に御着城主を子の政職に譲り、天正4年(1576年)に没した。
やがて、東の織田、西の毛利の二大勢力が台頭してくると、政職は重臣・小寺孝隆(後に黒田孝高(官兵衛)と改名)の言に従い、織田方に付く。その後、毛利氏の部将浦宗勝が率いる毛利軍五千人を千人の兵で撃退し、織田信長から感状を与えられる。この勝利は、後に秀吉の軍師として竹中重治と並び称された孝高の作戦によるものであったと『黒田家譜』にはあるが確たる証拠はない。しかし、三木城城主別所長治の裏切りや有岡城城主荒木村重の反乱などに動揺し、毛利方に離反する。その後、織田方の攻勢で三木城と有岡城が落城すると、御着城を捨てて備後の鞆へと逃亡し、天正14年(1584年)に没した[5][注釈 1]。こうして、大名としての小寺氏は滅亡した。
政職の子・氏職、政職の甥(弟・貞政の子とされる)横寺宗政はいずれも黒田氏に仕え、子孫は藩主黒田氏の下、筑前国福岡藩士として存続した。ほか政職の遺児である天川正則が播磨へ土着し、政職の弟・則治の子孫は丹波国氷上郡東芦田村に土着したとされる。
室町前期に美作国岩屋城主を務めた流れの小寺氏は、嘉吉の乱後は播磨国庄山城主に返り咲いていたが、
一方で小寺政隆の代に登用されて小寺氏を賜っていた姫路城代・重臣の黒田氏は、小寺氏が織田氏から離反した後も織田氏に従い続け、小寺氏滅亡の後に黒田氏へと復姓し、近世大名として存続した。小寺氏本流が仕えた福岡藩はその直系である。
2014年には小寺政職の終焉の地との伝承が残る兵庫県太子町広坂で、政職の子孫と周辺住民約40人が集まって政職を顕彰した[6]。
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