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日本の氏族 ウィキペディアから
紀長谷雄の子孫とされているが、実際は紀貫之の子孫であるという。また、江戸時代の大名である堀田氏は浦上氏と同族とする仮冒系図を持っているが、これは堀田氏が室町時代の名門・浦上氏の威光を利用するための仮冒であり、堀田氏とは別系統と考えるべきである。
もとは播磨国浦上荘を本拠地とした豪族の一つ。鎌倉時代末期から南北朝時代には、浦上氏出身の臨済宗の高僧宗峰妙超が活躍し、歴代の天皇から尊崇を受け、大燈国師と呼ばれた。室町時代に入ると赤松氏の重臣として重代にわたって守護代を務めた。赤松氏は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で没落するが、応仁の乱で浦上則宗が赤松政則と共に東軍の細川勝元に属し、播磨・備前・美作を回復する。浦上氏は備前国守護代のみならず、侍所所司代となり京の都を統治した。
その後、山名氏は失った播磨・美作・備前と取り戻そうと度々侵攻するが、その対応を誤った赤松氏の力が衰退するのを見て、浦上村宗は主君・赤松義村を下克上にて討ち、戦国大名として名乗りを上げた。だが、管領細川高国と組んで中央の覇権を握るかに見えた時、その赤松氏の裏切りによる大物崩れで数千の戦死を出す損害とともに村宗や重臣島村貴則は戦死してしまう。残った浦上方は幼少の浦上政宗を担いで赤松氏と抗争することになる。
ここで内部分裂で衰退する山名氏に替わって、山陰より尼子氏が強大な勢力となって度々山陽を侵略する所となり、浦上氏は一応赤松氏とは和したものの、尼子氏と連携して独立しようとする政宗と備前の支配を任され反尼子の旗幟を明らかにして政宗より独立した宗景が兄弟骨肉の争いとなり、政宗は播磨に、宗景は備前国に根拠を置いて分裂することとなる。政宗は播磨守護代として赤松氏を牛耳るが、永禄9年(1566年)に赤松政秀に襲われて滅亡した。一方、弟の宗景は自立して備前や美作国一帯に大勢力を築き、また織田信長と誼を通じるなどして最盛期を迎えたが、天正3年(1575年)に天神山城の戦いで台頭してきた重臣の宇喜多直家によって宗景が追放されたため、滅亡した。その後、宗景はしばらくは「宇喜多端城」(所在地不明)を奪還した後に拠点として荒木村重の庇護下にあったようであるが、有岡城の戦い以後の消息は史料の上では確認できなくなる。
江戸時代に備中国鴨方藩の上級藩士で大目付に任じられていたが、後に脱藩した文人画家の浦上玉堂は宗景の子孫である。
子孫を称する浦上元によると、浦上姓は「うらかみ」と読むのが正しいとしている。
行義以降、則宗まで系譜は諸説(行義 - 行高 - 正泰 - 之満 - 昌勝 -(浦上)則宗など)あり一定していないが、ここでは「太平記」の記述を元に掲載する。
孝元天皇 - 彦太忍信命 - 屋主忍男武雄心命 - 武内宿禰 -(紀)角 - 白城 - 小弓 - 大磐 - 男麻呂 - 小足 - 塩手 - 大口 - 大人 - 古麿 - 飯麿 - 真呂名 - 国守 - 貞範 - 長谷雄 - 淑光 - 文利 - 忠道 - 家俊 - 宗信 - 宗雅 - 定綱 - 俊文 - 俊重 -(堀田)重遠 - 重満 - 行義 -(浦上)行景 - 広景 - 行宗 - 貞宗 - 則宗 - 宗助 - 村宗
則宗の父については諸説ある。
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