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墓を設ける為の区域 ウィキペディアから
墓地(ぼち)は、亡くなった人の遺体や遺骨を埋葬する墓を設けるための区域[1]。墓場(はかば)ともいう。なお、墓をつくるために土地(墓地等)の一部を区画した部分を墓所(ぼしょ)という[1]。
本項目では、墓を設けるための区域について主に解説する。個々の墓や埋葬や葬制に関する事項については、「墓」などの項目を参照。
英語で墓地を意味する cemetery という言葉は、ギリシア語の κοιμητήριον (眠る場所)、つまりそこに死者が永遠の眠りについている場所を暗示する言葉に由来している。 墓地は、西ヨーロッパ諸国では故人の葬儀の最後の儀式が執り行われる場所でもある。こうした儀式、もしくは祭礼は、文化や信仰、宗派によってもかなり異なってくる。墓地はその設けられる場所により、それ以外のところにある墓地とはかなり区別されるものになってくる。
文化や地域にもよるが、墓地は通常は礼拝の場所、つまり教会、礼拝堂に直接隣接するものではない。たとえば、英語で言う graveyard (墓所)というものは、たいていは churchyard(教会の中庭)に設けられている。スコットランドやイングランドでも北部では kirkyaird という。churchyard というのは、もともとは文字通り教会の前の中庭であって、直ちに墓所に結びつくものではなかった。たとえば、哲学者のセーレン・キルケゴールのラストネームは、やはりデンマーク語で「墓地」のことであると、しばしば誤解されているのもその例である。実際には教会に附属する周辺の農牧地(-gaard, 英語の garden の原義である「囲い地」の意に近い)を意味する。
およそ17世紀頃からヨーロッパでの葬儀は、教会の統制の下に、主として教会の敷地の中で行われるようになってきた。その仕来たりは時代と共に変化はしてきたが、ヨーロッパ大陸では遺体は、それが腐敗するまで、通常そのまま大規模な墓の中に埋葬されていた。遺体が腐り果てると、掘り起こして納骨堂に収められた。でなければ、墓所の側面のアーチを描くような壁に沿って並べられるか、あるいは教会の壁の背後、もしくは床の厚い石板の下に納められた。
その後、中世の時代、都市の城壁の内部に遺体を埋葬することは、伝染病の蔓延につながり公衆衛生上深刻な問題となった。結局、いくつかの墓地は、人口の密集した都市の中心部から引き離されることになった。たとえば、18世紀後半、パリの大きな墓地から掘り起こされた遺骨は、パリのカタコンブの中の納骨堂に移され、墓地は、都市中心部では一切禁じられることになった。
教会や教会付属の墓地とは無関係の墓地管理会社や共同墓地の類は、大多数が19世紀初頭から出現してくる。特に眺望がよく、公園のような霊園というかたちで、既にその時期から誕生してきている。ただし、墓地解放運動は、既に1740年頃からその動きがでてきている。
空間的に風景となるような様式の墓地の最も初期の例は、パリのペール・ラシェーズ墓地である。これは教会によって統制された墓地というよりも、国家の墓地という理想を体現したもので、ナポレオン戦争の拡大と共にそのスタイルはヨーロッパ中に広まっていった。これはまた時には民間業者によって開発された墓地にもこのスタイルが採用された。
共同墓地や民間業者による墓地への移行は、都市の外での埋葬するための土地開発と相俟って進行した。
墓地は一般に厳かな敬意を以って見られる場所であるが、しばしばそこには礼拝堂のような宗教的施設も付属した。時には火葬場が併設されることもある。墓の盗掘やそうした宗教施設への盗みは、重い罪とされている。
墓地の様式は国によってもかなり変化してきている。たとえば、アメリカ合衆国や多くのヨーロッパの国々では、新しい墓地は広い場所に数多くの墓石が地面に並んでいる。ロシアでは、普通小さく囲まれた家族の墓所の中に墓石が置かれる。もっともこうした風習はアメリカでもその初期の時代にはごく普通のことだったようで、古い墓地に行くと同様のものを見ることが出来る。
都市部の墓地では、特に歴史のある古い都市では新たな問題が生じてきている。墓地自体が、手狭になり、もう空間的に飽和状態で、新しい墓を作ることが出来ないというケースである。これは、この墓地自体をもはや歴史的記念碑と考え、そのままの状態であとは保存するのみとするか、あるいは古い無縁墓を掘り起こして、ひとつに整理して場所を空けるということである。これは国により、風俗慣習により対処の仕方は両極端に分かれていく。日本では、納骨堂やビル型墓地などの建物内に納骨し、カードなどで利用者照合し骨壺を運ぶ仕組みを採用している所もある[2][3][4]。南米のブラジルでは、墓地自体を高層ビル化したというような例もある。
今日ではあまり馴染みのないことであるが、アメリカの植民時代には家族としての墓地という形式も、当時の生活様式の中ではごく自然のことであった。共同墓地や宗教的な墓地というものがまだ根付かなかった時代、植民者たちは土地を見つけて、普通自分たちの住む土地に隣接した木立の中に家族の墓地を作った。時には複数の家族が自分たちの亡くなった家族を一緒に埋葬した。こうした場所がその後大きくなって墓地の形態をなしていく。しかし、一家の家系が途絶えたり、他の地に移動したりするとそうした墓地は忘れられていく。辺地の過疎化し、廃村となったような村のはずれの墓地には同様のケースが見られる。
もっと近代になってからも、大きな地所をもった一族の中には自分たちの敷地内に霊廟や遺骨安置所のようなものを立てているケースもなくはない。フォーリングウォーターの遺骨安置所は、その最たる例である。ただ今日では、遺体を埋葬するに当たっても、さまざまな法律の規制がかかるようになり、私有地だからといってもおいそれと埋葬するわけにはいかない。たとえ不可能ではないにせよ、家族だけの墓地を自分たちの敷地であったとしても、なかなか厳しくなってきた。
日本では、村落墓地、個人墓地の新設は現在は許可されない。したがってその場合は、許可された公営墓地、寺院墓地、民営墓地へ埋葬することとなる。
主にパソコンや携帯電話の画面に表示される、お墓や遺影、戒名、生前の写真などを対象にお参りができるサービス。実際の墓を訪問するのに困難が伴う場合がありそのような場合向けのサービスであるが、さまざまな意見がある[9]。
比喩的な表現として、船舶、航空機などの廃棄場、処分場を「墓場」と表現する場合がある。
解体待ちの船舶を係留する場所が「船の墓場(boat graveyard)」と呼ばれている。現代の先進国では環境汚染や人件費の問題があるため、大型船舶は環境規制が緩く人件費の安いインド、バングラデシュ、パキスタンにある解体処分場に送られることから、東南アジアが「船の墓場」と呼ばれることもある[10]。小型船舶は産業廃棄物として国内で解体されている。
廃車となった鉄道車両は専門の業者が回収して廃棄する。これらの業者の解体場には鉄道車両が山積みになっている。
日本では長岡車両センターに所属するEF64形の1030, 1031, 1032号機は、廃車を解体場(長野総合車両センターなど)まで牽引することから俗に「死神」と呼ばれている[11]。
使われなくなった航空機はモハーヴェ空港やテューペロ地域空港などの飛行機の墓場に送られる。ここでは廃棄処分と部品取りの機体が混在している。
役目を終えた人工衛星のうち制御が可能なものについては、影響の少ない軌道(墓場軌道)へ移動させたり、影響の少ないポイント・ネモなどのスペースクラフト・セメタリーへ落下させる。機械の寿命を死と捉え、廃棄場所を墓場と見立てる例である[12]。
東武伊勢崎線細谷駅の敷地内には、市内で使われていたバス停標識が仮置きされていることから「バス停の墓場」と呼ばれている[13]。
ビデオゲームの墓場という、アメリカ合衆国ニューメキシコ州アラモゴードに存在する埋め立て地がある。1983年にアタリが大量の在庫ゲームカートリッジ・ゲーム機本体を処分した地点である。
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