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鎌倉時代中期の武将・御家人。吉良氏(三河家)の祖。従五位下、上総介 ウィキペディアから
吉良 長氏/足利 長氏(きら おさうじ/あしかが おさうじ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。足利氏の有力一門・吉良氏の祖。
足利義氏の庶長子として誕生。名の読みは「ながうじ」とする書物が多いが、子・満氏が創建した実相寺[注釈 1]代々の住職の言い伝えでは「おさうじ」と読むのが正しいとされる[要出典]。三河国吉良荘を領有したことから、吉良長氏と名乗った[1]
生母の身分が低かったため、長子でありながら足利家の家督を継ぐことができず、宗家に従属する家人のような立場になったと言われている。
『吾妻鏡』には安貞2年(1228年)7月23日に4代将軍・藤原頼経の随兵として登場するのが最初で、以後、寛喜元年(1229年)の流鏑馬の射手、相模国近国一宮への祈祷の使い、嘉禎2年(1236年)の将軍の随兵、嘉禎3年(1237年)の足利邸への将軍御成りの際の献上品引渡し役等を務めている。そして、仁治2年(1241年)1月2日の椀飯の記事を最後に『吾妻鏡』から長氏の名前は見えなくなる。鎌倉を離れ、地頭職を務める三河国吉良荘へ向かったと考えられる。
建長3年(1251年)に鶴ヶ崎天満宮(西尾市)を造営。弘安8年(1285年)、霜月騒動で子・満氏を失ったため、嫡孫・貞義を養子とする。晩年は吉良荘内の今川(西尾市今川町)または竹崎(西尾市上町)の地に隠居したと言われる。
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