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鎌倉時代後期の武将・御家人。三河西条領主。鎌倉幕府 越前守護。吉良長氏の嫡男。従五位下、上総介、左衛門尉 ウィキペディアから
吉良 満氏 / 足利 満氏(きら みつうじ / あしかが みつうじ)は、鎌倉時代後期の武将・御家人。三河国西条領主。越前国守護[1]。妻は足利泰氏の娘[2]。上総介、従五位下、左衛門尉[3]。
『吾妻鏡』には建長4年(1252年)4月1日、新将軍宗尊親王の鎌倉入りの随兵として登場するのが最初で、正嘉元年(1257年)から廂番、正元2年(1260年)には昼番衆として表れる。弘長3年(1263年)8月の記事を最後に『吾妻鏡』から名前が見えなくなるが、三河国吉良庄(現・愛知県西尾市)へ帰ったらしい。
文永8年(1271年)、吉良庄に東福寺の円爾を招き、実相寺を創建した(『聖一国師年譜』『元享釈書』)[4][注 1]。
文永の役後、防備体制強化の一環として、越前国守護に任ぜられた[1]。鎌倉時代に足利氏の庶流で守護になったのは満氏が唯一であり、異例の人事だった。
弘安7年(1284年)、北条時宗が出家、死去。この頃、満氏も出家した(『尊卑分脈』)[4]。直後に、足利家時が自害[4]、北条時国[注 2]が殺された[5]。
弘安8年(1285年)11月17日、鎌倉で霜月騒動が起こり、子・貞氏(足利上総三郎)が殺された(『鎌倉年代記』裏書)[5][注 3]。貞氏の跡は、その弟・貞義が継いだ[5]。
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