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明治・大正時代の小説家、樋口一葉の師 ウィキペディアから
半井 桃水(なからい とうすい、1861年1月12日(万延元年12月2日)- 1926年(大正15年)11月21日)[1]は、日本の小説家。
本名は冽(「きよし[1][2]」、または「れつ[2]」)だが「洌」との表記[3]もある。幼名は泉太郎(せんたろう)[2]。
半井湛太郎[3]・藤の4人弟妹の長男として対馬厳原藩、現在の長崎県対馬市厳原町に生まれる。父の仕事の関係で少年期は釜山で過ごす。家計を助けるため12歳から釜山で働き始めるが、英語を学ぶため日本へ戻され、進学する。1875年(明治8年)に上京して[2]尺振八の共立学舎に学び[3]、いくつかの新聞社を転々としたあと(1888年・明治21年)に東京朝日新聞の記者となり[1]、朝鮮語が話せることから通信員として釜山に7年間駐在する。
翌年、同紙上に「唖聾子」を掲載[3]、続いて「くされ縁」「海王丸」「業平竹」などで新聞小説家としての地位を確立[3]、三崎町の新開地で葉茶屋「松濤軒」も経営していた。1891年(明治24年)から連載した長編「胡沙吹く風」が代表作[3]。同年、樋口一葉が門下に加わる[4]。一葉のデビュー作「闇桜」は、桃水が1892年(明治25年)に創刊した『武蔵野』に発表された[4]。しかし翌年、一葉は門下を離れた。一葉と恋人関係にあったという噂が当時からあった。その後死去まで三百編以上の小説を書いたが、今では読む人もいない。その他の著名な作品に「天狗廻状」「義民加助」などがある。
吉住小三郎(四代目)らとともに長唄研精会を創設。舞踏や長唄、俗曲などにも詳しく[5]いくつかの作詞をしている。
1926年(大正15年)11月21日、福井県敦賀市で執筆中に脳溢血を発症、同地の病院で死去。遺骨は東京市牛込区若宮町の自宅へ送られ、同年11月27日に告別式が行われた[5]。墓所は文京区養昌寺。戒名は観清院謡光冽音居士[6]。
未だに本格的な伝記はないが、対馬市厳原町中村の生家跡とされる場所に半井桃水館がある。
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