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東アジアで用いられたおよそ2時間の単位 ウィキペディアから
十二時辰(じゅうにじしん)とは、近代以前の中国や日本などで用いられた、1日をおよそ2時間ずつの12の時辰(じしん)に分ける時法である。“およそ2時間”とあるのは、後述の通り夜と昼、季節で長さが変動するからである。
十二支 | 名 | 読み | 初刻 | 正刻 | 終 | 正刻の鐘[注 2] |
---|---|---|---|---|---|---|
子字 | 夜半 | やはん | 23時 | 0時 | 1時 | 夜/暁九つ |
丑字 | 鶏鳴 | けいめい | 1時 | 2時 | 3時 | 夜/暁八つ |
寅字 | 平旦 | へいたん | 3時 | 4時 | 5時 | 暁七つ |
卯字 | 日出 | にっしゅつ | 5時 | [注 3] | 6時7時 | 明六つ |
辰字 | 食時 | しょくじ | 7時 | 8時 | 9時 | 朝五つ |
巳字 | 隅中 | ぐうちゅう | 9時 | 10時 | 11時 | 朝/昼四つ |
午字 | 日中 | にっちゅう | 11時 | 12時 | 13時 | 昼九つ |
未字 | 日昳 | にってつ | 13時 | 14時 | 15時 | 昼八つ |
申字 | 晡時 | ほじ | 15時 | 16時 | 17時 | 昼/夕七つ |
酉字 | 日入 | にちにゅう | 17時 | 18時[注 4] | 19時 | 暮六つ |
戌字 | 黄昏 | こうこん | 19時 | 20時 | 21時 | 宵/夜五つ |
亥字 | 人定 | にんじょう | 21時 | 22時 | 23時 | 夜四つ |
十二辰刻(じゅうにしんこく)・十二刻(じゅうにこく)・十二時(じゅうにじ)とも呼ぶ。時辰・辰刻・刻・時は、いずれも本来は単に時間・時刻という意味の言葉だが、十二時辰制のもとでは1日を12に分けたそれぞれのおよそ2時間を意味し、刻・時はまた任意の2時間を表す単位としても使われる(ただし他の長さを表すこともある。刻は1日を48に分けたおよそ30分など、時は1日を24に分けたおよそ1時間も意味する)。
十二時辰のそれぞれには「夜半」等の名があるが、十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)でも呼ばれる。その場合、漢語では「子時(しじ)」などと呼ぶが、日本では「子の刻(ねのこく)」「子字」[1]などと呼ぶのが普通である。
十二時辰の名称は『書経』や『詩経』といった古書に散見されるが、十二にまとめられたものは『春秋左氏伝』昭公5年「故有十時」に対する杜預の注釈において見られる。
その名称のうち太陽の位置に関すると考えられるものは日出・隅中・日中・日昳・日入である。日の出・日の入り、南中する時間が中心であり、隅中は太陽が東南隅を過ぎて日中に近づいた時間であるといわれ、日昳は太陽が西へ傾くことを意味するとされる。また空の明るさに関するものが平旦と黄昏と考えられ、日の出前あるいは日の入り後のいわゆる薄明の時間帯に由来する。
一方、古代中国人の食事の時間帯に由来するのが食時と晡時で、古人は1日2度の食事を日の出後と日の入り前にとったとされる。
またその他に鶏鳴は文字通り鶏が鳴く時間帯に、人定は人が寝静まった時間帯に由来すると考えられる。
各時辰のおよそ2時間の始まる時刻を初刻(しょこく)、中間を正刻(せいこく)と呼ぶ。1日の始まりの0時は、十二支の第1である子の正刻となる。つまり、1時間早い23時が子の初刻で、子の刻の始まりである。子の正刻つまり0時を正子、午の正刻つまり12時を正午と呼ぶ。
日本では各正刻に鐘を鳴らした。その回数は、正子・正午には9回で、それから時辰ごとに1回ずつ減る。そのことから、子の正刻から順に「九つ」「八つ」……と呼んだ。
時報を「9」回の鳴鐘から始めるのは、陰陽師が暦とともに時間も管理していたことに由来する。陰陽道では奇数を縁起のよい陽の数とし、その極値が9であることによる。以降、次の時辰は本来の考え方では、9を2つ重ねて18、さらに次は3つ重ねて27とするが、これでは数が大きすぎるため、鳴鐘は十の桁を省略して8、7としている。この方法は古来から続いており、現代でもこのシステムが一部の寺院などで使用されている。それゆえ結果的に鳴鐘は9から1つずつ減っていくように見える形となっている。
2時間おきでは不便なため、半刻後を、丑の初刻から順に「九つ半」「八つ半」……と呼んだ。いずれも、12時間後に同じ呼び名の時刻が来るため、区別するためには「夜九つ」「昼九つ」などと呼んだ。「おやつ」の語源の「八つ」は不定時法下では変動するが、およそ14時である。
室町時代から江戸時代までの日本では、不定時法が主流だった。貞観4年(862年)に日本に導入された宣明暦では、不定時法では常に、日の出は卯の正刻、日没は酉の正刻とした。平安時代以降長らく宣明暦が使用されていたが、江戸時代の貞享元年(1684年)に導入された貞享暦からは、昼の時間は日の出から日没ではなく、これに前後の薄明を加えたものとなった。すなわち、日の出の2刻半[注 5]前が夜明けであり1日の始まりとして卯の正刻、日の入り2刻半後が日暮れとして酉の正刻とされるようになった[2]。
このため、夏場は日の出が早く日没が遅くなり、逆に冬場は日の出が遅く日没が早くなることから、昼夜それぞれを6等分した時辰の長さ、つまり昼の1刻間と夜の1刻間は同じ長さにはならず、冬の昼間や夏の夜間は短くなり、冬の夜間や夏の昼間は長くなる。これを平均して2時間である。したがって正子・正午以外の時刻も季節により変動した[注 6]。
寛政暦では、夜明けと日暮れ時は、太陽の中心の地平線に対する伏角が7°21′40″となる時刻であるとされる。これは、球面三角法を使用した計算で京都での春分・秋分の日における日の出前・日没後2刻半の太陽の位置を求めた結果に基づくものであることが、後の明治時代以降に判明した[2]。この場合、夜明けと日暮れの長さは緯度・季節によって異なるが、京都のみならず江戸においても約36分前後となる。理科年表には、視太陽の中心の伏角が7°21′40″となる時刻を夜明、日暮として旧東京天文台における夜明・日出・日入・日暮の時刻が記されている[3]。
正子の太陽の方位は北つまり十二方位の子(し)、正午の太陽の方位は南つまり十二方位の午(ご)である。地球上の南北線を子午線(しごせん)と呼ぶのは、このためである。同様に、東の方位は「卯(ぼう)」、西の方位は「酉(ゆう)」であるので、東西線を「卯酉線(ぼうゆうせん)」と言う。これらの関係は、他の正刻については正確ではないが大まかには成り立つ。
明代以降になると西洋の24時間制が入り、時辰も2分されて1時間に相当する小時(小時辰の略)も用いられるようになった。これにより時刻も、初刻から1時間の初と、正刻から1時間の正に分けられ、例えば子の刻であれば、23時から0時までが子初、0時から1時までが子正とされた。
日本語では、時辰の半分に当たる時間を半刻(はんとき)と呼んだ。
時辰を40分ごとの3刻に分ける。この3刻を早い順に上刻、中刻、下刻という。
例えば、子の刻ならそれぞれを「子の上刻」「子の中刻」「子の下刻」と呼ぶ。
ただし、期間のことではなく、それぞれ時辰の始まり・中間・最後である、つまり、上刻は初刻、中刻は正刻、下刻は次の初刻のことだとの説もある。
時辰を30分ごとの4刻に分ける。子の刻ならそれぞれを「子一つ」「子二つ」「子三つ」「子四つ」と呼ぶ。「草木も眠る丑三つ時(丑三つ刻)」の成句で知られる「丑三つ」は2時から2時30分である(不定時法のため少し変動する)。
日本語では、時辰の4分の1に当たる時間を四半刻(しはんとき)と呼び、これは江戸時代には日常的に用いられる時間の最小単位であった(天文学などの専門分野では更に細かい単位も用いられたが)。
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