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十二支のひとつで第3番目 ウィキペディアから
寅(とら、いん)は、十二支の3番目の支。
夏王朝では1月に北斗七星が寅、殷王朝では丑、周王朝では子の方向を向いていたであろうと当時は考えられており、夏王朝は寅、殷王朝は丑、周王朝は子を月建とした[2]。秦王朝では顓頊暦(建亥)を採用し、漢王朝初期も顓頊暦を採用していたが[3][4]、太初元年(BC104)に武帝がこれを三正循環論(これら3つの正月制定法が王朝交代と共に循環する)としたため、漢王朝では「周正の次は夏正」という王朝交代論で夏正を採用し、寅月を正月とした建寅となった[2][5]。漢王朝以降の戦国各国は夏正を歴とし、現在に至るまで、建寅月を正月とする夏正暦が2千年間も中国暦(旧暦・農暦)で使用され続けてきたため「夏正を基にした太陰太陽暦は立春付近に正月を置く暦」と誤解されることになり、太陰太陽暦の正月を建寅月にすることは物理上は正しくない[6]。
また夏王朝以前は冬至起点に子月を正月とした歴が採用されていたという説もある[7]。
天文道・二十四節気 平気法では冬至を1年周期の開始としており、暦法上は周正に最も正当性があり、24時間に十二支を配当すると子の時刻はPM11:00-AM0:59となり、それを24節気に配当すると日付の切り替わるAM0:00が一年周期の切り替わる冬至の位置と重なる。現代の天文学による計算では周王朝初期に、北斗七星が冬至の頃の夕方に北を向いていたという[2]。物理上は十二支の1番目である「子」を正月に置く周正に正当性があり、十二支の1番目である子を最初、更に冬至を起点にすることで物理的な整合性が合致する[2]。
四柱推命や紫微斗数といった占術などの古典は大半が夏王朝以降に記された物であり、正当性のある冬至起点ではなく、夏正による判断によって占術に用いる歴が制定されているため、日本の早生まれなどの鑑定に用いると誤りが生じることがある。
五黄の寅年生まれは気が強いと言われ、この年に女子が産まれることを忌む俗習がある(同様の俗習については「丙午」も参照)。「於菟」(おと)と名づける習慣があり、『広辞苑』には「於菟は虎の異称であり、わが国で猫の異称」とも書いてある。読みは「ごおうのとら」だが、訛って「ごごうのとら」「ごうのとら」「ごこうのとら」などとも言われる。
五黄の寅は36年に1回訪れる(「五黄土星#五黄土星の(中宮になる)年」も参照)。20世紀以降で現在までの該当年は以下のとおりである。
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