剣岳吉五郎
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剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 - 1950年4月19日)は、富山県富山市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は五十里 吉次郎。身長174cm、体重94kg[1]。
富山県富山市出身。立浪部屋に入門し、1916年1月場所に初土俵を踏む。新十両が1925年5月場所、新入幕が1927年5月場所と、昇進のスピードは緩やかだったが、1928年には、大関大ノ里萬助や常陸岩英太郎からも勝ち星を挙げたり、新進気鋭の武蔵山武にも初顔から連勝したりと、時折存在感を示した[1]。その風格について「古武士」と評されたこともある。
右四つからの寄り、蹴返しなどを持ち味とした取り口であった[1]。
1932年1月場所の番付では、東前頭16枚目に位置していたが、その場所前に起きた春秋園事件で、協会を脱退[2][1]、天竜三郎たちと行動を共にし、以後相撲協会には復帰しなかった。最高位は東前頭2枚目だった。関西では、1936年、40歳まで現役にあった。
春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1916年 (大正5年) |
(前相撲) | x | 新序 3–0 |
x | ||
1917年 (大正6年) |
西序ノ口6枚目 4–1 |
x | 東序二段70枚目 3–1 1預 |
x | ||
1918年 (大正7年) |
東序二段12枚目 4–0 1預 |
x | 東三段目29枚目 1–1 1預 |
x | ||
1919年 (大正8年) |
東三段目16枚目 2–3 |
x | 東三段目24枚目 2–2 1預 |
x | ||
1920年 (大正9年) |
西三段目15枚目 3–2 |
x | 東三段目筆頭 3–2 |
x | ||
1921年 (大正10年) |
東幕下39枚目 3–2 |
x | 西幕下25枚目 2–3 |
x | ||
1922年 (大正11年) |
東幕下29枚目 1–2 |
x | 西幕下41枚目 1–4 |
x | ||
1923年 (大正12年) |
西三段目19枚目 8–2 |
x | 西幕下28枚目 4–2 |
x | ||
1924年 (大正13年) |
西幕下7枚目 0–0–5 |
x | 西幕下27枚目 4–2 |
x | ||
1925年 (大正14年) |
西幕下11枚目 5–1 |
x | 西十両10枚目 2–4 |
x | ||
1926年 (大正15年) |
東十両15枚目 4–2 |
x | 東十両8枚目 5–1 |
x | ||
1927年 (昭和2年) |
東十両2枚目 6–3 |
東十両2枚目 5–6 |
東前頭14枚目 7–4 |
東十両5枚目 7–4 |
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1928年 (昭和3年) |
西前頭5枚目 7–4 |
東前頭14枚目 2–9 |
東前頭2枚目 3–6–2 |
東前頭2枚目 3–8 |
||
1929年 (昭和4年) |
西前頭6枚目 2–9 |
西前頭6枚目 0–11 |
西前頭12枚目 5–6 |
西前頭12枚目 5–6 |
||
1930年 (昭和5年) |
西前頭8枚目 1–10 |
西前頭8枚目 5–6 |
西前頭11枚目 5–6 |
西前頭11枚目 7–4 |
||
1931年 (昭和6年) |
東前頭6枚目 2–9 |
東前頭6枚目 2–9 |
西前頭12枚目 3–8 |
西前頭12枚目 3–8 |
||
1932年 (昭和7年) |
東前頭16枚目 – |
x | x | x | ||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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