前谷地
宮城県石巻市の大字 ウィキペディアから
宮城県石巻市の大字 ウィキペディアから
前谷地(まえやち)は、宮城県石巻市にある大字であり、旧遠田郡前谷地村、旧桃生郡深谷前谷地村、旧桃生郡前谷地村前谷地、旧桃生郡河南町前谷地に相当する[5]。郵便番号は987-1101[2]。2024年(令和6年)2月時点では住居表示未実施[6]。石巻市の住民基本台帳によると、2024年5月末での人口は2,560人、世帯数は1,025世帯である[1]。
石巻市の西部、河南地域の北西部に位置し、東部で和渕と、南部で北村と、西部で遠田郡涌谷町名鰭や同郡美里町練牛と、北部で涌谷町猪岡短台と接する。
旭山丘陵と須江丘陵に挟まれた水田地域で桃生丘陵の北端と周辺の沖積低地を占める[7][8] 。JR石巻線と気仙沼線の接続点である前谷地駅が所在し、国道108号、宮城県道21号河南米山線、宮城県道29号河南築館線が会合する交通の要所で、河南地域の中心地区として栄える[7]。
2024年6月現在における前谷地の小字は以下の通りである[4]。
宮城県各村字調書によると、明治17年頃の前谷地村の小字は以下の通りである[14] [15]。
太古、前谷地の平坦部は入江であり、そのため、のちに湖沼を扣える低湿地帯となった[16]。また、西部に江合川が、東部に北上川(現在の旧北上川)が流れており、しかも両川とも流れが緩やかであったことから、水が停滞し、少しの降雨でも氾濫する川であったことから、前谷地の開拓はしばしば成功しなかったとされる[16]。前谷地古記録には前谷地村の田地開発の始めは天正年中とされ、それから長年開拓され続けていったが、度々洪水があって人家も耕地も押し流されて砂河原となってしまったということが記されている[16]。江戸期になって、産業振興を重要施策とした伊達政宗が当地を治めるようになり、元和2年10月27日に前谷地における大規模な開墾を農民に命じた[17]。農民らは堤防が貧弱であるにもかかわらず、開墾を命じられ、内心不満の情があったが、そこで政宗は江合川の改修にとりかかり寛永14年に防災工事が完了、江合川を現在の流路に改めて、前谷地江を設置、水田の用水堀を作った[17][18][8]。その結果、諸国から開墾に移住する百姓が続出し、1667年(寛文7年)の検地測量時点では17人の百姓が当地で耕作し、1687年(貞享4年)の検地測量時点では30人の百姓が当地で耕作している[17]。
1616年(元和2年)の伊達政宗領知黒印状に、「大崎遠田之内一まい谷地」とあり、河南町誌によると、元和年間は遠田郡に属していたが、「玉造川相廻り候」のち深谷に属したという[5]。黒印状は「わふち谷地」「はこ清水谷地」との合計200貫文の地が給人14人に給与され、神田開発中の五年間は荒野扱いとされ無税であった[注 1][5]。なお、寛文年中の伊達宗重の書に
今の桃生郡こ和淵村前谷地村は寛永十七年まで遠田郡にて、同年桃生郡に入りし趣き記してあれば
とあり、寛永の頃に桃生郡に属したとされる[8]。
1776年(安永5年)の前谷地村「風土記御用書出」によると寛文7年の検地が行われた時点では、田が3,103石余、畑が164石余、本百姓は64人、人頭は125人であったとされる[20][21][22][8]。
幕末、戊辰戦争が開戦するにあたって、仙台藩は奥羽越列藩同盟を結成し、江戸幕府方につくことになった[23]。前谷地では齋藤善右衛門が明治2年4月1日に仙台藩浪士の見国隊に襲われて、古金銀貨二千二百両余、古銅貨二十五貫文余、鉄銭三千二百貫文、藩札百七十三枚、大小刀、衣類、雑品数千点を略奪された[24]。
1928年秋、小作米を納めようとしていた齋藤家の小作人に対して、「小作米として愛国という品種の米を受け取らない」という通達があった[25]。愛国は晩生種で味はあまり良くないが、病害に強く、炊き増えするということで小作人らはその品種を多く作付けしていた[25]。齋藤家が愛国を拒否した理由は、東京で愛国の評判があまり良くなく、一般の米よりか安く取引されていたためであった[25]。結局、多くの小作人はなんとか愛国以外の小作米を工面した[25]。しかし、菅原嘉之栄という小作農がとても小作米が納められないということで保証人をたて、三カ年の年賦にしてくれるように懇願したが、齋藤家はこれを受け入れず、菅原の小作料が未納ということになり、齋藤家は土地の返還を要求、新しい小作人も決められていた[26]。そこで、菅原は自小作農として大きな経営をしていた高橋淳および日本農業組合宮城県連豊里支部長の篠原源吉に相談を持ちかけた[26]。その結果、1928年3月30日、日農支部は組合員約400人を総動員して前谷地の小作地取り上げ現場で一斉に小作地の耕耘を行った[26]。ほどなくして、石巻署と広渕分署併せて30名ほどの警察官が出動し、耕作中の農民を阻止しようと争乱が発生した[27]。争いは「死者が出るかもしれなかった」というほど激しいものであったとされる[27]。多勢に無勢で圧倒された警察側は石巻署署長の三浦章が齋藤家との調停をすることを約束して乱闘が治った[27]。三浦は齋藤家主人十代目齋藤善右衛門と面会し、菅原に対して「滞納した小作料は三カ年の年賦で支払ってよい」という内容を取り付け農民たちに報告した[27]。これに対し、日本農業組合宮城県連指導者の矢後利明は「今日の争議に関して一切逮捕者を出さないこと」を三浦に約束させた[28]。しかし、翌日から次々と検挙者を出し、小作争議に参加した者の一部は裁判に附されることになり、争議を指導したとされる矢後は懲役六ヶ月の実刑となった[28]。これら一連の騒動はのちに前谷地事件と呼ばれるようになった。
1958年(昭和33年)の前谷地の土地利用は田1,006ha、畑118ha、山林119ha、原野1haであった[8]。
仙台藩安永風土記によると
当村往古ハ野谷地ニ御座候処深谷北村真言宗深谷山箱泉寺境内之林当村島屋崎山御林迄引続申候ニ付箱泉寺前之谷地と唱来候ニ付村名ニ罷成候由申伝候事。
とあり、北村の真言宗深谷山箱泉寺の境内の林が当地の鳥屋崎の林まで続いていたので、箱泉寺の前にある谷地ということで前谷地と命名されたと伝えられている[5][44][45]。
ただし、アイヌ語で湖畔を意味する「マ」と谷地が組み合わさり、それが転訛したことを由来とする説もある[46]。
2024年(令和6年)5月末時点での域内の人口は以下の通りである[1]。
小字 | 世帯数 | 男 | 女 | 計 |
---|---|---|---|---|
赤羽根 | 13世帯 | 15人 | 17人 | 32人 |
馬道前 | 10世帯 | 14人 | 19人 | 33人 |
大在家山 | 27世帯 | 27人 | 33人 | 60人 |
大溜池 | 1世帯 | 1人 | 0人 | 1人 |
大和田前 | 1世帯 | 1人 | 1人 | 2人 |
沖埣 | 31世帯 | 43人 | 45人 | 88人 |
沖東 | 3世帯 | 2人 | 6人 | 8人 |
御蔵場 | 17世帯 | 26人 | 26人 | 52人 |
小友 | 13世帯 | 15人 | 14人 | 29人 |
上谷地 | 4世帯 | 6人 | 4人 | 10人 |
河原前 | 7世帯 | 7人 | 6人 | 13人 |
河原南 | 2世帯 | 1人 | 2人 | 3人 |
黒沢 | 43世帯 | 44人 | 50人 | 94人 |
黒沢下 | 9世帯 | 11人 | 11人 | 22人 |
黒沢前 | 87世帯 | 100人 | 121人 | 221人 |
小網場 | 20世帯 | 28人 | 23人 | 51人 |
小谷地 | 64世帯 | 78人 | 82人 | 160人 |
鹿張 | 3世帯 | 5人 | 7人 | 12人 |
下谷地 | 3世帯 | 2人 | 3人 | 5人 |
定川 | 10世帯 | 8人 | 11人 | 19人 |
上楼屋 | 7世帯 | 10人 | 8人 | 18人 |
新上谷地 | 4世帯 | 7人 | 7人 | 14人 |
新下谷地 | 7世帯 | 8人 | 8人 | 16人 |
新二間堀 | 36世帯 | 43人 | 45人 | 88人 |
新堀 | 2世帯 | 4人 | 0人 | 4人 |
新山崎前 | 7世帯 | 10人 | 9人 | 19人 |
新横沼 | 49世帯 | 55人 | 71人 | 126人 |
龍ノ口山 | 10世帯 | 12人 | 13人 | 25人 |
筒頭 | 2世帯 | 5人 | 2人 | 7人 |
寺前 | 7世帯 | 13人 | 12人 | 25人 |
照井 | 3世帯 | 3人 | 7人 | 10人 |
天王山 | 38世帯 | 42人 | 47人 | 89人 |
中埣 | 89世帯 | 93人 | 120人 | 213人 |
中谷地 | 5世帯 | 7人 | 5人 | 12人 |
中津才 | 3世帯 | 4人 | 5人 | 9人 |
二間堀 | 19世帯 | 18人 | 28人 | 46人 |
西谷地 | 45世帯 | 64人 | 65人 | 129人 |
西柳原 | 17世帯 | 12人 | 15人 | 27人 |
西横須賀 | 17世帯 | 22人 | 25人 | 47人 |
沼下 | 9世帯 | 13人 | 9人 | 22人 |
根方山 | 47世帯 | 59人 | 62人 | 121人 |
兀山谷地 | 13世帯 | 16人 | 11人 | 27人 |
八幡山 | 20世帯 | 35人 | 28人 | 63人 |
八工区北 | 29世帯 | 35人 | 23人 | 58人 |
荊沼 | 2世帯 | 3人 | 3人 | 6人 |
樋口 | 14世帯 | 23人 | 19人 | 42人 |
前沼 | 24世帯 | 24人 | 25人 | 49人 |
前ノ谷地 | 5世帯 | 5人 | 4人 | 9人 |
的場 | 3世帯 | 2人 | 6人 | 8人 |
廻道 | 8世帯 | 14人 | 13人 | 27人 |
櫓前 | 16世帯 | 20人 | 20人 | 40人 |
山崎前 | 2世帯 | 2人 | 2人 | 4人 |
山崎山 | 25世帯 | 32人 | 42人 | 74人 |
山根 | 16世帯 | 19人 | 19人 | 38人 |
横須賀 | 43世帯 | 51人 | 51人 | 102人 |
横沼 | 7世帯 | 8人 | 10人 | 18人 |
吉田窪 | 7世帯 | 8人 | 10人 | 18人 |
合計 | 1,025世帯 | 1,235人 | 1,330人 | 2,565人 |
安政元年から明治6年まで前谷地村河原に小野寺誠道が設立した小野寺塾という寺子屋が存在しており、明治3年時点で生徒数は男16名、女3名であった[60]。
1873年6月1日には教員2名、生徒99名(男94名、女5名)を以て、第四十六小学区前谷地小学校が設置され、根方にある津田一太郎宅を仮校舎として授業が開始された[35]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.