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日本の江戸時代に、信濃国に所在した藩 ウィキペディアから
飯田は戦国時代、武田家の家臣・秋山虎繁、徳川家の家臣・菅沼定利、毛利秀頼(斯波氏の一族)が治めていた。文禄2年(1593年)に秀頼が死去すると、その娘婿であった京極高知が跡を継いだ。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで高知は東軍に与して本戦で戦功を挙げたことにより、丹後宮津藩へ加増移封された。代わって慶長6年(1601年)、下総古河藩から小笠原秀政が5万石で入るが、慶長18年(1613年)に信濃松本藩へ移封され、飯田藩は廃藩となり、幕府領とされた。
元和3年(1617年)、伊予大洲藩より脇坂安元(脇坂安治の子)が5万5000石で入る。安元の跡は脇坂安政が継いだが、叔父の脇坂安総に2000石分知し、寛文12年(1672年)に播磨龍野藩へ移封され、代わって堀親昌が下野烏山藩から2万石で入部した。しかし堀氏の藩政は財政窮乏により早くから不安定であり、藩財政は御用達から借り上げることによって賄われるという「御定借」体制であった。このため、宝暦12年(1762年)には藩政改革反対一揆、文化6年(1809年)にも同様の騒動が起きている。
第10代藩主・堀親寚は水野忠邦の天保の改革で幕閣の一人となり、奏者番・寺社奉行・若年寄・老中などを歴任して7000石を加増されたが、水野失脚に伴い7000石は収公の上、本高3000石も減封され、その分は陸奥白河藩領に加えられた。
また幕末期には、常陸水戸藩の武田耕雲斎の天狗党に対して何の対処もとらず、清内路関所の通行阻止も懈怠したため、幕府から2000石を減封され、その分は旗本・千村平右衛門の預地に加えられた[1]。第11代藩主・親義は、京都見廻役をつとめている。戊辰戦争では新政府に恭順した。
明治4年7月、廃藩置県により廃藩となって飯田県、同年11月には筑摩県、明治9年(1876年)8月には長野県に編入された。
5万石 譜代 (1601年 - 1613年)
(1613年 - 1617年)
5万5000石→5万3000石 外様→譜代 (1617年 - 1672年)
2万石→2万7000石→1万7000石→1万5000石 外様→譜代 (1672年 - 1871年)
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