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日本のサッカー選手、監督 (1963-) ウィキペディアから
佐久間 悟(さくま さとる、1963年7月7日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。現在はJリーグ・ヴァンフォーレ甲府の代表取締役、ゼネラルマネージャー。
城西大川越高校では高校選手権の埼玉県予選でベスト8に進出。駒澤大学に進学し、4年次にはチームの主将を務める。大学卒業後NTTに入社、大宮アルディージャの母体となるNTT関東サッカー部でプレーし、2年目に副主将、3年目からは主将を務めた。
引退後はNTT関東と大宮で指導者としてのキャリアを経験してフロント入り。1995年にはドイツやオランダに留学し、リヌス・ミケルスの考案した指導者養成プログラム「ダッチ・ビジョン」に触れ、大きな影響を受けた。帰国後はコーチとプロ化準備室員を兼任し、2003年にS級ライセンスを取得。2004年に強化部長に就任、2006年からは強化・育成部長となった。2007年、退任した三浦俊也監督に代えてロバート・ファーベークを招聘するもチームは前半戦終了時16位と低迷。自ら指揮をとることとなった。立場としてはNTT東日本からの出向の身であり、異例のサラリーマン監督であった。就任時に掲げた残り16試合で8勝・勝ち点40到達という見通しには届かなかったものの、2007年シーズンを終了して15位と辛うじてJ1残留に成功、12月6日をもって監督を退任した。成績は5勝7敗4分。翌2008年もテクニカルディレクターとしてクラブに残ったが、9月17日をもって退団した。
退団から2週間後の10月1日、ヴァンフォーレ甲府のGMに就任。この年低迷した原因を分析し、改造に着手。長年甲府が行っていた独自セレクションの廃止や得点力不足に陥っていたFW陣の入れ替え、手薄だった守備陣の補強を積極的に行なう。その結果、2009年は終始昇格争いを繰り広げ4位に入り、さらに2010年には2位となり、チームは4年ぶりにJ1へ昇格した。2011年8月、成績不振により解任された三浦俊也の後任としてGM兼任で監督に就任したが、最後まで調子は取り戻せずチームは1年でJ2に降格。2012年は城福浩が監督に就任し、佐久間は再びGM専任となったが、チームはこの年J2優勝を果たして1年でJ1に復帰し、2013年・2014年も城福体制で2年連続でJ1残留に成功した。
2015年は樋口靖洋が監督に就任したが、1stステージ第5節で最下位に転落すると最下位から脱出できないまま、第11節終了後に樋口が解任され、大宮時代を含めて3度目のシーズン途中での監督就任となった(GM兼任)。監督就任後は、11試合で20失点と崩壊していた守備を立て直し、1stステージの残り6試合を4勝2分けと負けなしで終えて12位で1stステージを終えると、2ndステージはやや失速したものの、年間13位で3年連続で残留に成功した。
2016年はGMと監督を兼任し、初めてシーズン当初から指揮を執ることとなる(佐久間は前年柏レイソルの監督を務めた吉田達磨を監督に招聘することを考えていたが、この年はリーグ戦の開始が早く、チームを構築する時間が短くなるため断念したと話している[2])。3月29日にはクラブ副社長も兼務することが発表され[3]、3足のわらじを履くこととなった。この年は主力の故障と移籍が続出したのが響いて最終節まで残留争いから抜け出せず、11月3日の最終節も敗れたが、他会場の結果により年間14位で4年連続の残留に成功した。試合終了後の会見で「来年は新しい監督に委ねることとなる」と、監督職は2016年限りで退任することを発表した[4]。11月15日に、監督に前年も招聘が検討された吉田達磨が就任し、佐久間は副社長とGMの兼務になることが発表されている[5]。
2021年3月、ヴァンフォーレ甲府を運営するヴァンフォーレ山梨スポーツクラブの社長に就任した。
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