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日本の江戸時代末期の武士・学者 ウィキペディアから
伊達 千広(だて ちひろ、享和2年5月25日(1802年6月24日) - 明治10年(1877年)5月18日)は、幕末の紀州藩士で国学者。本名は宗広(むねひろ)。通称は藤二郎、号は自得。陸奥宗光の実父であり、また史論書『大勢三転考』の著者である。
享和2年(1802年)、紀州藩士・宇佐美祐長の息子として生まれ、後に叔父の伊達盛明の養子となる。本居大平の許で国学を学ぶ。12歳で家督を相続し、3年後の文化13年(1816年)には藩主・徳川治宝の小姓となる。治宝に才能を愛されて18歳で監察に任じられ、以後、勘定吟味役から同奉行、寺社奉行兼務へと昇進して500石取りとなる。家老・山中筑後守を補佐し、「和歌山派」の中心人物として藩政改革を推進する一方、藩内の尊王論を主導した。
嘉永5年(1852年)に治宝と山中が相次いで病死すると、幼少の徳川慶福(徳川家茂)を補佐する形で改革反対の「江戸派」の御附家老・水野忠央が藩の実権を握った。専横を振るって危険思想を広めたとの容疑で水野によって捕られ、家老・安藤直裕に預けられて、以後10年近くにわたって紀伊田辺にて幽閉された。
文久元年(1861年)、前土佐藩主・山内容堂の口利きによって釈放される。養子・宗興に家督を譲って隠居するが、翌年には宗興とともに脱藩して尊皇攘夷運動に参加する。元治2年(1865年)、激怒した藩によって和歌山に連れ戻され、再び幽閉の身となった。
明治維新後の明治2年(1869年)に幽閉が解かれ、宗興も執政に抜擢された。千広は大阪に移り住み、敬愛していた藤原家隆ゆかりの地に「自在庵」という庵を建て、その地を「夕日岡」(夕陽丘)と命名している。明治5年(1872年)に体調を崩し、陸奥の勧めにより東京・深川の陸奥邸にて悠々自適な晩年をすごした。
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