Loading AI tools
ウィキペディアから
伊藤 稔(いとう みのる、1954年3月15日 - )は、北海道出身の元騎手・調教助手。
馬事公苑長期講習では安田隆行・稲葉的海と同期で、1974年3月に栗東・橋田俊三厩舎からデビュー[1]。
稲葉以外の同期には、岩元市三・佐々木晶三・西園正都・出口隆義・池添兼雄・佐野清広・河内洋・秋山忠一がいた[1]。
兄の栄は家庭の事情で牧場管理に専念するため引退し、稔もデビュー前に父の病気で北海道に帰っていた[1]。
同2日の阪神第2競走4歳未勝利・ワカマツクイン(13頭中10着)で初騎乗[2] [3]を果たし、同期の出口もヤマニンチェス(13着)で初騎乗[2] [4]であった。
4月1日の小倉第1競走4歳未勝利で5頭中5番人気のマルエクインに騎乗し、同期の河内が騎乗する人気馬マルブツシュウホウを抑えて[5]初勝利[3]を挙げる。
8月25日の小倉では自身初の2日連続勝利[6]を記録し、1年目の同年から2桁勝利で12勝[7]をマーク。
2年目の1975年には12月6日・7日の中京で初の2日連続勝利[8]を記録し、2年連続2桁で自己最多の17勝をマーク[7]。
3年目の1976年は4勝と初の1桁勝利[7]に終わったが、4勝中3勝は中京ダート1700m戦[9]で挙げ、12月11日の阪神では初の特別勝ち[8]を記録。
1979年には4年ぶりの2桁となる11勝[7]をマークし、1980年12月20日の京都第10競走清水特別で21頭中15番人気のアービルオーで勝利[10]。
1982年には2月21日の京都第6競走4歳新馬ではハギノカムイオーの新馬戦で2着に入ったドクタータケシバで勝利し[11]、ドクタータケシバと同じ馬主のドクターモンスター[12]、新潟時代に「ホクエツヒカリ」の名前で東北優駿を制したカネデントーショー[13] [14] [15]で条件戦3勝と活躍。
函館記念では須貝彦三厩舎の高松宮杯馬カズシゲ[16]で最内からすくって先頭に立ち[17]、河内騎乗のサニーシプレーとの叩き合いを制し[17]、ブロケード・メジロティターン・リーゼングロス・キヨヒダカも抑えて[18]自身唯一の重賞制覇[19]を飾った。
1982年に3年ぶりの2桁となる11勝[7]、1983年には2年連続で自身最後の2桁となる17勝[7]をマークし、1984年にはリウジンフジで金杯(西)をロンググレイスの4着[20]に入った。
1985年にはリウジンフジで金杯(西)を10頭中8番人気ながらロングハヤブサ・ロンググレイスを抑えての2着[21]、ニッポーキング産駒の九州産馬カシノテンザンで2勝[22]を挙げた。
1987年と1989年には自己最低の1勝[7]に終わり、最終騎乗となった1990年2月18日の阪神第6競走4歳500万下・ユートジョージを勝利で飾って引退[23]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.