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一ノ矢 藤太郎(いちのや とうたろう、1856年3月25日 - 1923年2月15日)は、青森県南津軽郡田舎館村出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は福士 藤太郎。最高位は大関。現役時代の体格は178cm、95kg[1]。
角界の革命児と謳われた初代高砂に入門し、1880年(明治13年)5月場所序ノ口。序ノ口から7場所目となる1883年(明治16年)5月場所で入幕を果たす[1]。彼の入幕以降2020年7月場所時点まで137年間、青森県出身の幕内力士が不在だった場所は一度もない[2]。幕下二段目から十両を一気に飛び越しての昇進であり、期待の大きさをうかがわせる。
178cmという身長は当時にあって長身、力も強く左四つからの吊り、寄りを武器に幕内にあっても期待通りの活躍を見せた。新入幕の場所で7勝2敗を挙げていきなり優勝相当の好成績を挙げ、初代西ノ海(のち16代横綱)大達(のち大関)とともに「高砂三羽烏」と謳われた。平幕暮らしが長かったものの入幕から6年後の1889年(明治22年)1月場所で待望の大関に昇進した。ところが2場所とも勝ち越していながら、3場所目の1890年(明治23年)1月場所で関脇に落とされるという不運を味わった。その後3年間三役を務めて1892年(明治25年)6月場所を最後に引退した[1]。
引退後は角界には残らず、地元青森に帰って土地相撲を率いて各地を巡業し、当時としては長命の66歳(数え年で68歳)まで生きた。一ノ矢を慕って高砂部屋に入門するものが続出し、一時「津軽部屋」とも呼ばれたほどだったという。そうしたことから、「青森相撲王国中興の祖」と呼ばれている[3]。曾孫は一乃矢藤太郎の四股名を名乗り、1960年代前半に幕内で相撲を取った。
春場所 | 夏場所 | |||||
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1880年 (明治13年) |
x | 東序ノ口16枚目 – |
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1881年 (明治14年) |
東序二段12枚目 – |
東三段目34枚目 – |
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1882年 (明治15年) |
東三段目8枚目 – |
西幕下42枚目 2–0 (対十両相当)[4] |
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1883年 (明治16年) |
西幕下11枚目 3–0 (対十両相当)[4] |
西前頭10枚目 7–2–1[5] |
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1884年 (明治17年) |
西前頭6枚目 3–4–1 1分1預 |
西前頭6枚目 2–3–3 2預 |
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1885年 (明治18年) |
西前頭3枚目 4–3–1 1分1預 |
西前頭2枚目 0–0–10 |
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1886年 (明治19年) |
西前頭5枚目 6–3–1 |
西前頭筆頭 6–3–1 |
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1887年 (明治20年) |
西小結 8–1–1[5] |
西関脇 3–1–6 |
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1888年 (明治21年) |
西関脇 4–1–4 1預 |
西関脇 7–0–1 2分 |
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1889年 (明治22年) |
西大関 3–2–4 1預 |
西大関 6–3–1 |
||||
1890年 (明治23年) |
西関脇 1–3–5 2預 |
東関脇 0–0–10 |
||||
1891年 (明治24年) |
東小結 5–3–2 |
東小結 0–0–10 |
||||
1892年 (明治25年) |
東小結 2–1–4 3預 |
東小結 引退 0–0–10 |
||||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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