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ロビン・トロワー(Robin Trower [traʊə(r)][1]、1945年3月9日 - )は、イギリスのブルース、ロック・ギタリスト。プロコル・ハルムの初期メンバーとして活動した後、自身のトリオを率いているなどしている。代表的な「ジミヘン・フォロワー」の一人である[2]。ジミ・ヘンドリックス的な曲作りと、良く似た粘り気のあるブルージーなサウンドから、「ジミの再来」と評された[3]。
ロビン・トロワー Robin Trower | |
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1975年のライブ | |
基本情報 | |
出生名 | Robin Leonard Trower |
生誕 | 1945年3月9日(79歳) |
出身地 | イングランド ロンドン |
ジャンル | ブルース、ブルースロック、ハードロック、サイケデリック・ロック |
職業 | ミュージシャン、ソングライター、バンドリーダー |
担当楽器 | ギター |
活動期間 | 1962年 - |
レーベル | クリサリス、アトランティック、Mascot、V12 |
公式サイト |
www |
著名使用楽器 | |
フェンダー・ストラトキャスター | |
少年時代、B.B.キング、オーティス・ラッシュらブルース・ギタリストに影響を受けたトロワーは、1963年、ゲイリー・ブルッカーらと4人編成のR&Bバンド、パラマウンツで本格的な音楽活動を始める。ローリング・ストーンズはパラマウンツを「イングランド最高のR&Bバンド」と評し[3]、前座として起用した。その後、パラマウンツは6枚のシングル盤をリリースしつつ、ビートルズの前座や、サンディ・ショー、クリス・アンドリュースなどのバックバンドを務める。1966年11月、パラマウンツを脱退したトロワーは、ジャムというブルース・トリオを始めるが短命に終わる。
1967年7月、デビュー・シングル「青い影」を大ヒットさせたばかりのプロコル・ハルムが分裂し、リーダー格であった元パラマウンツのゲイリー・ブルッカーの誘いでプロコル・ハルムに加入する。トロワーはプロコル・ハルムで順調にキャリアを重ねるが、1970年、ドイツでジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスと共演した際に、ジミのプレイに感銘を受け[2]、ジミの死後、1971年にリリースされた『ブロークン・バリケーズ』において、「ジミに捧げる歌」として「ソング・フォー・ア・ドリーマー」を発表し[4]、ギターもジミが主に使用したフェンダー・ストラトキャスターに替えるなど[3]、ジミからの影響が強まる。他のメンバーとの音楽性の相違も大きくなり、1971年7月、トロワーはプロコル・ハルムを脱退。元ストーン・ザ・クロウズのベーシスト、ジェイムズ・デュワーらとプロジェクト的バンド、ジュードを始めるが不調に終わる。トロワーとデュワーは、元ジョー・ジャマー・バンドのドラマー、レグ・イサドアを誘い、トロワーは自身のソロ・プロジェクトとしてのバンドを結成することとなる。
(註:ロビン・トロワー・バンドはトロワーのソロ・プロジェクトの通称であり、アルバム名義は「ロビン・トロワー」である)
1973年2月、トロワーらは最初のライブをウィーンで行い、続いて3月にデビュー・アルバム『過去よりの再帰』をリリース。このアルバムはセールス的にふるわなかった(全米チャート106位)ものの、翌1974年にリリースされたセカンド・アルバム『魂のギター』がアメリカで大ヒットし(全米チャート7位、ゴールド・ディスク獲得)、更に米『ギター・マガジン』誌において、1974年度ベスト・ギター・アルバムに選ばれる[3]など、アメリカで高い人気を得る。トロワーは、このアルバムの成功は、レコーディング・エンジニア、ジェフ・エメリック(ビートルズのレコーディング・エンジニアとして有名)の功績が大きかったと述べている[5](ジェフ・エメリック#ビートルズ以降も参照)。
1975年、ドラムを元スライ&ザ・ファミリー・ストーンのビル・ローダンに替え、『遥かなる大地』をリリース。アメリカでの人気(全米チャート5位、ゴールド・ディスク獲得)のみならず、本国イギリスでもチャートイン[6]。日本での評判も高まり[7]、トロワーのギタリストとしての評価は固まる。以上、3枚のアルバムは、元プロコル・ハルムのマシュー・フィッシャーがプロデュースした。更に1976年、1975年のヨーロッパツアーにおけるストックホルムでのライブ盤『ロビン・トロワー・ライヴ!』により、人気・評価ともに絶頂期をむかえ[4][8]、つづく全米ツアーは史上最大のP.A.システムを使う[9]という大がかりなものとなった。
1976年9月にリリースされた『ロング・ミスティ・デイズ』は、サウンドがポップ寄りに変化し[3]、トロワーにとって唯一とも言えるシングル・ヒット「カレドニア」(全米シングルチャート82位)を出す。その後、元スライ&ザ・ファミリー・ストーンのベース、ラスティ・アレンを加え、ジェイムズ・デュワーはボーカルのみという編成でツアーを行い、1977年1月には初来日する[10]。4人編成となったバンドは、ボビー・ウーマックらソウル・アーティストを手がけていたドン・デイヴィスをプロデューサーに迎え、1977年『白昼の幻想』、1978年『キャラバン・トゥ・ミッドナイト』と、より米国マーケットを狙ったアルバム[7]をリリースする。トロワーは後に「ジミの影響から逃れようとしていた[2]」とも述べている。ラスティ・アレンが脱退し、トリオ編成に戻ったバンドは、1979年、原点回帰的な『地獄脱出』をリリースするがセールスは伸びず[11]、翌1980年5月、トロワーは7年間にわたった、ほぼ同一メンバーによるソロ・プロジェクトを終了する。
1981年、ドラムのビル・ローダンのみ残し、ジャック・ブルースとのトリオを組む。同年、バンド・アンサンブル重視の『B.L.T. (ジャック・ブルース+ビル・ローダン+ロビン・トロワー)』を発表。翌1982年には、ドラムをロビン・トロワー・バンドのオリジナル・メンバー、レグ・イサドアに替え『Truce』をリリースする。ファンクからハードロックまでと多彩であったジャック・ブルースとの共演はアルバム2枚で終了し、再びジェイムズ・デュワーと組み、1983年、『虹色の戦慄』をリリースする。
その後は、アルバム・リリースの場をインディーズ・レーベルにも移し、1994年には自らのレーベル、V12 Records[12]を立ち上げている。1991年のプロコル・ハルム再結成に参加したのち、1990年代のブライアン・フェリーのアルバム2枚[13]に共同プロデューサー及びギタリストとして、続くアルバムにもギタリストとして参加し、フェリーの来日公演にも同行した。近年ではV12 Recordsから散発的にアルバムをリリースしながら、2008年には欧米ツアー行うなど、ソロ初期の曲も含めたライブ活動を続けている。
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