モハメド・アリ・サマター

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モハメド・アリ・サマター

モハメド・アリ・サマターソマリ語: Maxamed Cali Samatar, محمد علي سمتر, 1931年1月1日 - 2016年8月19日)は、ソマリアの軍人で政治家。クーデターで大統領となったバーレの下で、10年以上空位だったソマリアの首相を務めた。バーレ政権崩壊後はアメリカに亡命。

概要 生年月日, 出生地 ...
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経歴

要約
視点

出生

サマターは1931年にソマリア南部のキスマヨで生まれた[1]。出身氏族は少数派のトゥマル英語版

中等教育を受けた後、旧ソビエト連邦の名門フルンゼ軍事大学英語版 に留学した[2]

ソマリア民主共和国

ソマリアは1960年に独立したが、1969年に少将だったバーレがクーデターを起こし、大統領となった。バーレ大統領は与党最高革命評議会英語版を作った。

サマターは最高革命評議会のメンバーとなった。1971年には副大統領となり、1970年代にソマリア軍英語版 (SNA) の中将となった。

1977年にエチオピアとの間で起こったオガデン戦争では、サマターは全ソマリア軍と、エチオピアの反政府組織西ソマリ解放戦線英語版 (WSLF) の一部を率いた[2]。当時のソマリア軍の野戦司令官は、ほとんどがサマターと同じくフルンゼ軍事大学出身で[3]、例えばアブドゥラヒ・ユスフアブドゥラヒ・アフメド・イッロ英語版などがいる。しかしオガデン戦争は失敗に終わり、ソマリア軍は1978年にほとんどが撤退した。

サマターは1980年から86年まで国防大臣を務めた。バーレ大統領は1982年から1989年にかけて、ソマリア北西部でイサック虐殺英語版と呼ばれる事件を起こしており、サマターもこの事件にかかわった可能性がある[4]

1986年5月、バーレ大統領は交通事故で命に係わるような重傷を負い[5]サウジアラビアの病院に1ヶ月入院した[6][7]。その時サマターは副大統領だったので、事故後数か月は事実上の国家元首を務めた。バーレ大統領は奇跡的に回復するが後遺症もあり、すでに70歳を超える高齢だったため、後継者が話題となった。サマターは、当時内務大臣だったAhmed Suleiman Abdille将軍と共に後継者候補とみなされていた[5][6]。1987年2月1日にサマターは、バーレがクーデターを起こして以来空席だったソマリア首相となった。

アメリカ亡命と裁判

1991年、軍閥統一ソマリ会議がバーレ大統領を首都モガディシュから追放し、バーレ政権は崩壊した。サマターはアメリカに亡命した。アメリカに住んでいることが明らかになったのは1997年だった[4]。後にバージニア州に移住した。

2004年[8][9]、サンフランシスコの人権団体「正義と説明責任のためのセンター英語版」の援助を受けたイサック系のソマリア人4人から、アメリカの裁判所に告訴された[4]。訴状では、サマターが直接残虐行為をしたわけではないが、監督責任があるとされた[10]。サマターは米国の外国主権免除法英語版を根拠として免責を訴えたが、2010年6月1日に最高裁は満場一致で本件に免責は適用できないと決定した[11]。サマターはさらに国際法が定める「元首の刑事免責英語版」に該当するとして争ったが、バージニア州東部地区連邦地方裁判所英語版はサマター敗訴の判決を出した[12][13]。賠償金の金額は2100万ドルだった[9]。ただしサマターは破産宣告をして、賠償金の支払いは逃れた[14]

2013年3月、ソマリア首相のアブディ・ファラ・シルドンアメリカ合衆国国務省に対し、サマターに訴追免除を与えるよう要請した[9]。大統領のオバマも訴追免除を支持した。しかし2015年3月、合衆国最高裁判所はサマターの敗訴を確定した[10]

死去

サマターは2016年8月19日にバージニアで死去し、ソマリアの首都モガディシュに埋葬された[15]

家族

  • サーラ・モハメド・アリ・サマター英語版 サマターの娘。2015年から2017年までソマリアの女性と人権大臣。

関連項目

脚注

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