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スペインの大学 ウィキペディアから
マドリード・コンプルテンセ大学(スペイン語: Universidad Complutense de Madrid, 略称はUCM)は、スペイン・マドリード州マドリードのモンクロア=アラバカ区に位置する公立大学。86,000人以上の学生が在籍している[1]。
スペイン語: Universidad Complutense de Madrid | |
ラテン語: Universitas Complutensis Matritensis | |
別名 | La Complu, Universidad de Madrid (nickname) |
---|---|
モットー | ラテン語: Libertas Perfundet Omnia Luce |
種別 | 公立大学 |
設立年 |
1293年5月20日(中世大学) 1499年(大学) |
提携関係 | Europaeum、Compostela Group of Universities、Utrecht Network、UNICA、国際大学協会(IAU) |
学長 | カルロス・アンドラーダス・エランス |
職員数 | 11,162名 |
学部生 | 74,771名 |
大学院生 | 11,388名 |
所在地 |
スペイン マドリード |
キャンパス | 都市型 |
学生組織 | 107グループ |
スクールカラー | |
公式サイト | www.ucm.es |
マドリード・コンプルテンセ大学の歴史は非常に古く、ヨーロッパ最古の部類に属し、スペインにおいてはサラマンカ大学に次ぐ歴史をもつ。世界で最初期に女子学生に博士号を与えた大学のひとつである[2]。
1293年5月20日、カスティーリャ王サンチョ4世はトレド大司教のゴンサロ・ガルシア・グディエルに対して、アルカラ・デ・エナーレスに中世大学(ストゥディウム・ゲネラーレ, ラテン語: Studium Generale)を設立するための勅許を与えた[3]。15世紀にスペイン王国の摂政・枢機卿となったフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロスはこの中世大学の卒業生であり、大規模な土地を購入して多くの建物の建設を命じ、コンプルテンセ大学にとって最初の「キャンパス」を建設した。1499年4月13日、シスネロス枢機卿は中世大学を正式な「大学」にするために、ローマ教皇アレクサンデル6世から教皇勅書を取得し、アルカラ・デ・エナーレスのラテン語名である「コンプルテンセ」を用いたコンプルテンセ大学(Universitas Complutensis、後にComplutum)を設立した。
16世紀初頭(1509-1510年度)には、人文科学・哲学部、神学部、教会法学部、文献学部、医学部の5つの学部が編成された[4][5]。16世紀から17世紀のあいだに、コンプルテンセ大学は世界の学問の中心地のひとつとなった。科学、人文科学、政治学などで世界を代表する学者がコンプルテンセ大学で教鞭をとったり研究を行っていた[6]。フランドルやアイルランドなどからやってきた外国人学生のための特別カレッジも設立された。
コンプルテンセ大学は世界でもっとも早くから女子学生に博士号を与えた大学のひとつであり、1785年にマリーア・イシドラ・デ・グスマン・イ・デ・ラ・セルダに博士号を授与した[2]。例えば、イギリスのオックスフォード大学は1920年まで女性学者を受け入れず[7]、ケンブリッジ大学は1926年まで女子学生に博士号(Ph.D.)を授与しなかった[8]。
1824年、フランシスコ・タデオ・カロマルデはシグエンサ大学と合併することでコンプルテンセ大学の規模を拡大させた[9]。イサベル2世の治世の1836年、コンプルテンセ大学はアルカラからマドリードに移転し、名称をマドリード中央大学(Universidad Central en Madrid)に変更、1970年代に「コンプルテンセ」の名前が復活するまでマドリード中央大学として知られた。これにともなって、アルカラ・デ・エナーレスにあった校舎は閉鎖されている。1857年の勅令によって、スペイン帝国下で博士号(PhD)を授与できるスペイン唯一の学術機関とされた。
1927年にはスペイン国王アルフォンソ13世がマドリード中央大学の土地を確保するための勅令を公布し、モンクロア宮殿に近い場所にコンプルテンセ大学のキャンパスが成立した。今日ではこのキャンパスは「大学都市」と呼ばれている。キャンパスの建設にあたって、マドリード中央大学の理事会はヨーロッパと北アメリカの権威ある大学を視察し、両大陸の長所を組み合わせて建設することを決定した。北アメリカにある19の大学に加えて、フランスのパリやリヨン、イギリスのオックスフォード、ドイツのベルリンやハンブルクなどの大学都市をめぐり、ハーバード大学、ペンシルベニア大学、パリ大学、ベルリン大学などが強く反映されている。
1923年2月28日には理論物理学者のアルバート・アインシュタインに名誉博士号を授与しており、コンプルテンセ大学はアインシュタインに初めて名誉科学博士号を授与したヨーロッパの大学である。1933年4月にはフェルナンド・デ・ロス・リオス教育・芸術大臣が、科学部に付属する「アルバート・アインシュタイン・インスティテュート」でアインシュタインが教授となることに合意したと発表したが[10]、ヨーロッパ全土で悪化する政治情勢によってアインシュタインが教鞭をとることはなく、アメリカ合衆国のプリンストン大学で類似する地位に就いた。
フランコ体制末期には大学改革が行われ、1968年にはマドリード第2の公立大学としてマドリード自治大学が設立された。マドリード中央大学はマドリード自治大学との混同を避けるために、マドリード・コンプルテンセ大学(Universidad Complutense de Madrid)に改称された。1971年にはマドリード・コンプルテンセ大学の工学分野と建築学分野が分割されてマドリード工科大学となった。アルカラ・デ・エナーレス市にある古い大学建築物には、マドリード・コンプルテンセ大学を分割する形でアルカラ大学が設立された。
現在のコンプルテンセ大学はスペインでもっとも規模の大きな大学であり、2004-05年度には91,598人の学生、約9,500人の職員、6,000人以上の教員が在籍していた。年間予算は5億ユーロ以上に上る。80近くの専攻、230の学位、221の博士号プログラムを提供している。30を越える図書室があり、200万冊以上の文献を所有している。特に90,000本以上の歴史的文書を所有しており、さらにヨーロッパ有数の映像資料のコレクションを有している。
コンプルテンセ大学の卒業生では、民主化以後にカルロス・アリアス・ナバーロ(在任1973年-1976年)、アドルフォ・スアレス(在任1976年-1981年)、ホセ・マリア・アスナール(在任1996年-2004年)の3人がスペイン首相を務めた。スペインの首都マドリードに拠点をおいていることから、コンプルテンセ大学はマドリードにある研究機関に対して多大な支援を行っている。医学部はサン・カルロス大学臨床病院、グレゴリオ・マラニョン病院、10月12日病院を運営しており、その他にも多数の専門病院を運営している。情報学部の教員の多くは元ジャーナリストであり、情報学部はメディアと良好な関係を築いている。カルメン・マウラ、サンティアゴ・セグラ、アレハンドロ・アメナーバルなど、コンプルテンセ大学出身の映画人も多い。情報学部は隔月刊の新聞「the Gaceta Complutense」を刊行しており[11]、1日12時間放送のラジオ局「ラジオ・コンプルテンセ」を運営している[12][13][14]。
エル・ムンド紙はコンプルテンセ大学について、「スペインでもっとも権威ある学術機関だと広く考えられている」としている[15]。一貫してスペインでトップクラスの大学に位置づけられており[16][17]、学術界、文化界、経済界、政治界などに多大な貢献を行っている。卒業生には著名な哲学者、著作家、科学者、歴史学者、軍人、政治家、指導者などがいる。卒業生にはノーベル賞受賞者7人、アストゥリアス皇太子賞受賞者18人、セルバンテス賞受賞者7人、欧州委員会委員、欧州議会議長、欧州評議会事務総長、欧州中央銀行理事、北大西洋条約機構(NATO)事務総長、ユネスコ事務局長、国際通貨基金専務理事、スペイン首相、スペイン国王がいる。2020年のQS世界大学ランキングにおいて、世界第212位とされた。2019年の世界大学学術ランキングにおいて、世界第201~300位とされた。2019年のCWTS Leiden Rankingにおいて、世界第206位とされた。
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