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ジュリアナ・ハットフィールド(Juliana Hatfield、1967年7月27日 - )は、アメリカ合衆国のミュージシャン、シンガーソングライター。大学在学中にロックバンド、ブレイク・ベイビーズのメンバーとしてデビューし、現在はソロで活動する。
ジュリアナ・ハットフィールド Juliana Hatfield | |
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2006年3月撮影 | |
基本情報 | |
生誕 | 1967年7月27日(57歳) |
出身地 | アメリカ合衆国 メイン州 ウィスカセット |
ジャンル |
オルタナティヴ・ロック インディー・ロック インディー・ポップ |
職業 | ミュージシャン、シンガーソングライター |
担当楽器 | ボーカル、ギター、ベース、ドラムス、パーカッション、ピアノ、オルガン、キーボード、ホルン、ハーモニカ |
活動期間 | 1986年 - |
レーベル | American Laundromat Records、Mammoth、Zoë、アトランティック、Bar/None、Ye Olde |
共同作業者 | ブレイク・ベイビーズ、サム・ガールズ、レモンヘッズ、マイナー・アルプス |
公式サイト |
www |
1967年、メイン州のウィスカセットに生まれる。ハットフィールドの父フィリップは放射線科の医師であり、ベトナム戦争時に空軍の軍医を務めた経歴もある[1]。ボストン郊外の町ダックスベリーで2人の兄弟と共に育ち、10代前半から音楽に目覚める。ハットフィールドは高校卒業後にボストン大学に進学し、その後は名門バークリー音楽大学に編入しピアノを専攻した。
1986年、大学在学中にジョン・P・ストロームとフリーダ・ボナー(現フリーダ・ラヴ)と出会い、ブレイク・ベイビーズを結成し、ハットフィールドはボーカルとベース、ギターやピアノを担当した。バンドはノースカロライナ州のインディーズ・レーベルであるマンモス・レコードと契約、1987年に1stアルバム『Nicely, Nicely』でデビューし、カレッジラジオを中心に支持を集め、アメリカやヨーロッパでツアーを行った。バンドはその後2枚のアルバムをリリースし、初期のパンキッシュな曲調から初期R.E.M.やニール・ヤングから影響を受けたメロディアスなギターポップにシフトしていった。1991年にバンドは解散した。
ブレイク・ベイビーズ解散後の1991年、ハットフィールドはレモンヘッズに加入しバンドの5枚目のアルバム『It's a Shame About Ray』のレコーディングに参加。ベースとコーラスを担当し、'92~'93年の間に行われたツアーにも参加した。
ハットフィールドは同時期にソロ活動も開始しており、1992年3月にソロデビューアルバム『Hey Babe』をリリースした。アルバムは1992年にリリースされたインディーズアルバムで最も売れたアルバムの一つとなった。この頃ドラマーにトッド・フィリップス、ベーシストにディーン・フィッシャーを募り、ジュリアナ・ハットフィールド・スリーを結成する。1993年に1stアルバム『Become What You Are』をリリース。アルバムの楽曲はラジオで頻繁に取り上げられるようになり、中でも収録曲「My Sister」はModern Rock Tracksチャートで1位を獲得するなど彼女にとって最大のヒット曲の一つとなる。1994年にバンドは解散。
1995年3月に2ndソロアルバム『Only Everything』をアトランティック・レコードよりリリース。よりヘヴィでアップテンポな作風となり、ハットフィールドも本作について「ボリュームとディストーションを大きくして、すごく楽しかった[2]」と語っている。1997年にも3枚目となるはずだったアルバム『God's Foot』をリリース予定だったが所属レーベルとの確執によって未発表となる。メジャーレーベルの契約上の義務から解放されるためインディーズレーベルBar/NoneよりEP『Please Do Not Disturb』をリリース。また『God's Foot』の長期に及ぶセッションの反発から、6日間でレコーディングした3rdアルバム『Bed』を1998年8月にリリースした。
2000年の4枚目のアルバム『Beautiful Creature』は自身のキャリアで最も賞賛されたアルバムの一つとなった[3]。同年に3人編成で制作された5枚目のアルバム『Juliana's Pony: Total System Failure』をリリース。2001年に新バンドであるサム・ガールズを結成し、ソロ活動と平行して活動。2002年には自身初のベスト・アルバム『Gold Stars 1992–2002: The Juliana Hatfield Collection』を発表した。2004年発表の6枚目のアルバム『In Exile Deo』はエンジニアにピンクやアヴリル・ラヴィーンのスタッフらが参加し、コマーシャルな音楽性を獲得。自主レーベルであるYe Oldeからリリースした2005年の7枚目のアルバム『Made in China』は、前作の反発からより生々しくダークなサウンドを展開した。同年に彼女の10代からの憧れであるXとツアーを行った。2008年に3年ぶり8枚目のアルバム『How to Walk Away』をリリースし、好意的なレビューに迎えられた[4]。
2010年2月に作曲、演奏、プロダクション、エンジニアリングやミキシングをすべて自身の手で行った9枚目のアルバム『Peace & Love』を発表[5][6]。12月にレモンヘッズのイヴァン・ダンドと共にニューヨークで2回アコースティック・ライヴを開き、チケットはソールドアウトと好評だったため、翌年1月までアコースティック・ツアーを行った。2011年8月に10枚目のアルバム『There's Always Another Girl』を発表し、ダウンロード版は自身の誕生日である7月27日に利用可能となった。2012年8月にセルフタイトルのカバーアルバム『Juliana Hatfield』をリリース。ザ・フー、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、レッド・ツェッペリンなどのカバー曲を収録した。2013年9月に12枚目のアルバム『Wild Animals』をリリース。『Peace & Love』に続く自主制作アルバムとなった。同年10月にはサイド・プロジェクトであるマイナー・アルプスの1stアルバム『Get There』を発表。2014年にはジュリアナ・ハットフィールド・スリーを再結成させ、2015年2月に20年半ぶりの2ndアルバム『Whatever, My Love』を発表した。
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