ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
ソビエト連邦の構成国 ウィキペディアから
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ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ウクライナ・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく)、略称ウクライナ共和国(ウクライナきょうわこく)は、かつてウクライナに存在したソビエト連邦の構成共和国である。1917年12月25日に成立したウクライナ人民共和国がその祖となっており、その後、いくつかの構成共和国を併合し、以後1991年8月24日まで存続した。国連の原加盟国である。
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公用語 | ウクライナ語 ロシア語 | ||||||||||||||||||
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首都 | ハリコフ(1934年まで) キエフ(1934年から) | ||||||||||||||||||
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通貨 | ソビエト連邦ルーブル | ||||||||||||||||||
時間帯 | UTC +2 | ||||||||||||||||||
現在 | ウクライナ ロシア(一部を実効支配) |
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1919年 - 1991年 | → |
(国旗) | (国章) |
ウクライナ語で «Українська Радянська Соціалістична Республіка»、ロシア語で«Украинская Советская Социалистическая Республика»。
名称の «Радянська» は「ソビエトの」と訳されるが、「ラーダの」と同義語である。通常、歴史・政治分野などに関する日本語文献では、ウクライナ中央ラーダやヴェルホーヴナ・ラーダのようなウクライナ独立派の組織はウクライナ語の「ラーダ」、ボリシェヴィキ側のものは原語は同じでもロシア語の「ソビエト」と訳し分けることが多いため、「ウクライナ・ラーダ社会主義共和国」とは通常訳されない。
なお、1919年から1937年までの間はウクライナ社会主義ソビエト共和国 «Українська Соціалістична Радянська Республіка», «Украинская Социалистическая Советская Республика» と称していた。
1917年3月にロシアのペトログラードで二月革命が起こると、ウクライナでは帝政時代より広範囲の自治と自由を求めて各派が集まり、中央政治機関となるウクライナ中央ラーダが構成された。中央ラーダは新たな「ロシア連邦」のもとでのウクライナとロシアの協力を求め、ペトログラードの臨時政府と交渉に当たった。その結果、夏には中央ラーダの要求は臨時政府によって認められ、ウクライナは「ロシア連邦」のもとでの自治権を獲得した。しかし、その後ボリシェヴィキが臨時政府を武力で倒してロシアの権力を掌握する十月革命が発生すると、中央ラーダはこれを認めずウクライナ人民共和国の成立を宣言した。これ以降、ウクライナの併合を図るソビエト政府と自治を守ろうとする中央ラーダとの間に激しい戦争が開始されることとなった。
ボリシェヴィキは、中央ラーダを傀儡化するため議会をボリシェヴィキ派で乗っ取ることを企図し党員を送り込んだが、当時ウクライナでは急進的で暴力的な都市政党であるボリシェヴィキは人気がなく、その議席は1割に満たなかった。ボリシェヴィキの支持層は都市の労働者が中心であり、またボリシェヴィキはロシアからの外来者という形でウクライナに現れたということも、多くが農民であったウクライナ人の支持を失う要因となった。当時、ウクライナの都市と農村の隔たりはほとんど外国であるといってよいほど大きなものであった。また、ボリシェヴィキが農民を「農民問題」として敵視・蔑視していたことや、ロシア人が伝統的にウクライナ人を軽んじてきたこともウクライナ人をしてロシアからの外来者ボリシェヴィキを嫌わせる原因となった。
中央ラーダの乗っ取りに失敗したボリシェヴィキは、これに対抗して新たにウクライナ人民共和国と同名になる、ウクライナ人民共和国(ソビエト派)を創設した。この国家は、ウクライナにおけるボリシェヴィキ派の受け皿となる組織として建設された。その目的は、民族主義的・民主主義的(ボリシェヴィキの指摘によれば「ブルジョワ的」)な国家であるウクライナ人民共和国を打倒し、ウクライナをボリシェヴィキの勢力下に置くことであった。共和国の首都は東ウクライナの都市ハルキウに置かれ、国民の多くは同地方都市部に居住するロシア人やユダヤ人であった。その後、ボリシェヴィキ勢力は徐々に農村部にも浸透していき、また煽動工作による中央ラーダ派の切り崩しも順調に進んでいった
建国当初は、ウクライナ人民共和国(ソビエト派)は必ずしもロシアの傀儡国家というわけではなく独自の行動をとっていたが、徐々にロシアの強い影響下に置かれるようになっていった。
ウクライナ人民共和国(ソビエト派)の建国と同時に、ボリシェヴィキ政府はウラジーミル・レーニンとレフ・トロツキーの連名でウクライナ人民共和国政府に対し最後通牒を突きつけた。中央ラーダは赤軍のウクライナ領内の通行の自由などのボリシェヴィキ側の要求を拒否した。ロシアの赤軍は、中央ラーダ軍との全面的な戦闘に突入した。
ボリシェヴィキと中央ラーダの決定的な対立により、本来はドン戦線へ派遣される予定であったヴラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ将軍の革命遠征軍が急遽ウクライナ方面へ振り向けられることとなった。1917年12月上旬、革命遠征軍はアントーノフ=オフセーエンコの指揮のもとウクライナへ侵入した。年の明けた1918年1月初めには、ミハイール・ムラヴィヨーフの総指揮のもと赤軍はウクライナ人民共和国の首都キエフに向かって進攻を開始した。一方、中央ラーダは1月9日に「第4次ウニヴェルサール」を発令し、ウクライナ人民共和国がロシアから分離し、完全な独立国となることを宣言した。
開戦したものの、革命で優秀な軍人が四散してしまったため、軍隊は双方とも即席のものであった。そのため、双方ともあまり優秀な軍隊であるとは言えず戦闘は一進一退であったが、宣伝活動や煽動工作はボリシェヴィキの方が上回っており、中央ラーダ軍は各地で崩壊を来すようになった。その結果、ロシア・ウクライナ赤軍は中央ラーダ軍を各地で破り、1月14日にキエフ近郊で行われたクルーティの戦いで赤軍の勝利が決定的となった。これに平行し、キエフ市内でもボリシェヴィキに煽動された勢力が武器庫を根拠地に武装蜂起を敢行した。1月23日にキエフのドニエプル左岸(新市街)に到達した赤軍は、よく1月24日キエフ中心市街に突入し、2日に亙る市街戦の末中央ラーダ軍を粉砕した。こうして、一時赤軍はキエフを占領するにまで到った。
赤軍はロシアからの遠征軍であり、構成員はほとんどがロシア人であった。彼らは横暴な「占領軍」として振る舞い、ウクライナ人の目には帝政時代同様の植民地の領主として映った。ソビエト化が自ら求めたのではなく占領者によって外部から持ち込まれたものであったということは、ウクライナがロシア帝国に組み込まれていった過程を想起させるものであり、ウクライナ人にとっては、ウクライナのソビエト化はウクライナの再植民地化にほかならないというべきものとなった。
ムラヴィヨーフの率いる赤軍は、キエフ占領の2週間に街頭や住居でウクライナ人を無差別に逮捕、処刑した。少なくとも、2000人のウクライナ人が殺害されたとされる。こうした暴虐の結果、ウクライナ人の間の反ボリシェヴィキ感情は決定的なものとなった。一時はキエフを占領した赤軍であったが、その後すぐにドイツ帝国軍と連合した中央ラーダ軍の巻き返しに遭い、キエフの町を破壊しつくしたあと市街から撤退し近隣の森林地帯に身を潜めた。
1918年2月9日には、ウクライナ人民共和国と中央同盟国との間にブレスト=リトフスク条約が結ばれ、独・墺軍と合同したウクライナ人民共和国軍は破竹の勢いでその領土を回復、ボリシェヴィキはウクライナ領内から駆逐されていった。
3月にはロシア共和国の首都はモスクワへ移転した。3月19日には、ウクライナ領内にあったすべてのソビエト共和国をロシア・ソビエト連邦社会主義共和国下のウクライナ・ソビエト共和国に結集することが決定された。これに伴い、それまでのウクライナ人民共和国(ソビエト派)、ドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国、オデッサ・ソビエト共和国、タヴリダ・ソビエト社会主義共和国がウクライナ・ソビエト共和国の下に統合された。しかし、これらの領土は5月までにはすべてウクライナ人民共和国軍によって奪取され、ウクライナ・ソビエト共和国政府はロシア領内へ逃れた。
一方、キエフの中央ラーダは4月29日にヘーチマンの政変によって解散させられ、かわって君主制国家ウクライナ国が建てられた。しかし、軍事的後ろ盾であったドイツ軍が11月11日に連合国へ降伏すると、ウクライナ国は風前の灯となった。中央ラーダの残党によって組織されたディレクトーリヤ軍は、ドイツ軍と協定を結んだ上でキエフを再占領し、ウクライナ国は首班のパウロー・スコロパードシクィイが亡命して消滅した。
復興したウクライナ人民共和国に対抗するため、ボリシェヴィキはそれまでの政策を改め、ウクライナ人懐柔策をアピールするため国家体制を改めることとした。まず、1919年1月6日には「ウクライナ労農臨時政府」 (Тимчасовим робітничо-селянським урядом України) を立ち上げ、国号を「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」に改めた。3月10日には、ウクライナ社会主義ソビエト共和国の独立が宣言され、これに伴い同国はロシア共和国との軍事同盟を結んだ。
8月には、ボリシェヴィキはアントーン・デニーキン将軍の南ロシア軍やシモン・ペトリューラのディレクトーリヤ軍に破れ、ウクライナのほとんどを失った。ボリシェヴィキはウクライナ人勢力の取り込みを図るためさまざまな懐柔政策を練った。その結果、ウクライナ社会主義ソビエト共和国ではウクライナ語が公に広く使用されることが求められ、ウクライナ人が国家の高い地位につけられるようになった。また、ウクライナ人農民からの抵抗が強かった土地の集団化も一時見送られた。
内戦期に積極的にロシア・ソビエトに協力して戦ったウクライナ人勢力に、ボロチビストがあった。
ボロチビストはウクライナ社会革命党(ウクライナ・エスエル)の左派として結成されたもので、19世紀末以降ウクライナで多数結成されていたウクライナ人諸党派の中ではとりわけロシアのボリシェヴィキに近く、ウクライナにおいてもロシアにおけるのと同様のソビエト革命を遂行しようと考えていた。また、彼らはロシアのボリシェヴィキがウクライナへ進攻することには強く反対しており、ウクライナのソビエト革命はウクライナの共産主義者によってなされなければならないとしていた。ボロチビストはウクライナが独立した社会主義共和国となり、独立したウクライナ赤軍を形成することを目指す民族共産主義者であった。ボロチビストは、1919年夏に他のウクライナ人左派とともにボロチビスト派のウクライナ共産党を結成した。これはロシアのボリシェヴィキやその流れを汲むボリシェヴィキ派のウクライナ共産党とは異なる、真にウクライナの共産主義勢力を代表するものであるとしていた。ボロチビスト派はウクライナの代表として独自にコミンテルンに参加することをコミンテルンへ要請したが、1920年2月に拒否回答が突きつけられた。彼らは他のウクライナ諸派のように反ボリシェヴィキ戦争に加わることを嫌い、コミンテルンの指示に従い党を解散してボリシェヴィキに合流することを決定した。
なお、のちの大粛清時代に真っ先にその犠牲となったのはかつてのボロチビストであった。
1919年6月には、クリミア・ソビエト社会主義共和国が、9月にはオデッサを首都とするベッサラビア・ソビエト社会主義共和国がロシア・ソビエト連邦社会主義共和国に統合された。また、1920年9月にはリヴォフを首都とするガリツィア・ソビエト社会主義共和国も統合された。これらの領土は、すぐにウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ譲渡された。
1919年秋には150万であった赤軍勢力は、翌1920年には350万近くに膨れ上がっていた。赤軍はポーランド軍には苦杯を舐めたものの、ペトリューラ軍、南ロシア軍を次々と破り、さらには各派のパルチザンも制圧した。最終的に、赤軍へ協力してきた無政府主義者のネストル・マフノの支持者も殲滅し、1921年には赤軍の勝利は確定したものとなった。
1920年のリガ条約でポーランドとの講和が成立した。ポーランドはペトリューラのウクライナ人民共和国と同国政府をウクライナを代表する唯一の政府と認め、単独講和は結ばないという協定を結んでいたが、これを破りロシア・ウクライナ両ソビエト政府と講和条約の締結に到った。ポーランド軍はキエフ攻勢ののちキエフを失っていたものの全体的には赤軍に対して優位に立っており、ポーランドはその軍事的優位を利用して東ハルィチナーなど多くの領土を得た。また、西ウクライナを中心に一部のウクライナ領土がチェコスロヴァキア領やルーマニア領となった。残る中部ウクライナ(ドニエプル・ウクライナ)、東ウクライナ(旧ヘーチマン国家領やスロボダ・ウクライナ)、南ウクライナ(旧新ロシア)などがウクライナ社会主義ソビエト共和国領となった。
一方、1921年10月18日には、クリミア自治ソビエト社会主義共和国のロシア帰属が決定された。1922年には、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国や白ロシア社会主義ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国とともにソビエト連邦を結成した。
1920年代、ウクライナでは内戦期に生じたウクライナ人のソビエトに対する悪感情を抑えるため、「ウクライナ化」と呼ばれる懐柔政策が採られた。1923年にはソ連全体で「土着化」政策が採用されたが、その最重要標的のひとつがウクライナであった。ウクライナ化政策は、1923年から1933年まで党の公式路線とされた。
これまでのウクライナ共産党はロシア人やユダヤ人が幹部を務めていたが、ウクライナ文化に無関心な彼らに代わり、ウクライナ人が幹部へ登用されるようになった。しかし、これはポーズであり、ウクライナ人は概して低いポストに甘んじていた。一方、帝政時代からたびたび弾圧されてきたウクライナ語の使用も、この時期には奨励されるようになった。政府職員にはウクライナ語が必修となった。また、公刊物はウクライナ語によることとされた。公務も、ウクライナ語で行われるようになった。教育にも力が入れられ、この時代、識字率の上昇は著しかった。また、教育もウクライナ語で行われた。
ウクライナ文化やウクライナ文学が隆盛を極めたこの時期は、ウクライナの「文化ルネサンス」と呼ばれている。中央ラーダの大統領であったムィハーイロ・フルシェーウシクィイら多くの亡命ウクライナ人学者や文化人が帰国し、各々の研究に打ち込んだ。
ウクライナ語の研究では、レーシャ・ウクラインカらの主張に基づき、ウクライナ語を豊かにするとしてウクライナ語標準語にガリツィアの語彙が取り入れられた。ウクライナ語標準語は、もともとドニプロペトロウシクなど中部ウクライナの方言をもとに定められていた。ハリチナーの要素をウクライナ語から排除しないとの方針は、ウクライナ語の中に西欧的な要素をより多く取り入れることとなった。この時期の研究の結果、初めての公式なウクライナ語正書法となる「1927年正書法」が完成された。
ウクライナ正教も奨励された。1920年に設立されたウクライナ独立正教会では、典礼に際し教会スラヴ語にかわってウクライナ語が使用された。また、1921年にはキエフおよび全ウクライナ府主教も任命された。
しかしながら、1927年にヨシフ・スターリンが実権を握ると、この状況は一転することとなった。スターリンは農民を革命の克服すべき対象として捉えており、農民国家でかつ民族主義の強いウクライナに対して大いなる疑念を抱いていた。加えて、スターリンの採った「一国社会主義」の立場から、強引な近代化と工業化が進められた。特に「五カ年計画」で推し進められた農業の集団化は、ウクライナに深刻な事態をもたらすこととなった。
1928年から1932年にかけて行われた第一次五カ年計画では、ウクライナは重点地域となっていた。ウクライナでは急速な工業化が行われ、ドンバスなど東ウクライナから中部ウクライナにかけてその発展は目覚しかった。工業化の結果、それまで主として農村に生活していたウクライナ人の都市部への移住が発生した。都市におけるウクライナ人人口は、1926年に6パーセントであったものが1939年には30パーセントとなっていた。
計画のもうひとつの軸となったのが、農業集団化であった。安い食料を労働者の居住する都市へ供給するため、また輸出へ食糧を回すため、国家による統制を行い易い自営農家を国営農場(ソフホーズ)や集団農場(コルホーズ)に集団化し、農民を土地から切り離すという政策が採られたのである。農民にとって土地から切り離されるということは、自らのアイデンティティを喪失することにほかならなかった。ウクライナの農民はこの集団化にできうる限りの手段で対抗したが、その結果多くの者がシベリア送りになったり高率な税によって苦しめられたり、また土地を所有する自作農であるクラークは、農民階級のブルジョワで人民の敵であるとして土地を没収され、収容所送りになったり処刑されたりした。また、この時期に抵抗する農民が所有する家畜を屠殺するなどしたため、その半数が失われた。
ウクライナでは、こうした急激な集団化のため1932年から1933年にかけて大飢饉(ホロドモール)が発生した。耕作態勢の混乱で不作に陥ったところに、モスクワ政府は政府調達ノルマとして収穫物の大半を収奪していったのである。政府による食糧の収集は強引なもので、ウクライナではこの時期に一説に500万人が餓死し、農村では村が丸ごと全滅したケースもあった。
のちにこの飢饉は強引な集団化や穀物調達によって人為的に起こされたものであると評価されており、スターリンによるウクライナ民族主義への弾圧の一環であるとも言われている。
スターリンの権力掌握は、1920年代に行われたウクライナ化政策も劇的に変更させることとなった。1933年の大飢饉を受けて、共産党はウクライナ化には「行き過ぎ」があったとして路線の変更を命じ、すなわち「ロシア化」が導入された。こうした中で、1920年代に活躍したインテリや文化人はなべて弾圧を受け、多くの者が再び亡命者となった。フルシェフスキイは、カフカースへ流刑され、1934年に流刑先のキスロヴォツクでこの世を去った。1930年代中盤には、ウクライナの民族楽器を弾くコブザール(コブザ奏者)やバンドゥリースト(バンドゥーラ奏者)が大量に殺害された。
ウクライナをはじめ、ソ連全域で教育・文化は一律化された。それはすなわちロシア化であった。ウクライナでは再びロシア語が必修となり、ウクライナ語出版物も規制されるようになった。また、ウクライナ語の修正も行われ、いくつかの文字が変更・廃止されたり、ロシア語から語彙や文法が取り入れられるなどした。廃止されたのは、1927年正字法で認められていた「Ґ」(ゲー)である。この文字はウクライナ語独自の文字で、ロシア語には存在しないものであったことから廃止となった。その結果、現代[いつ?]に到るまでこの文字はあまり使われることがなく、「ゲー」という発音もウクライナでは「ヘー」と混同されている。語彙の変更は、西欧のようにギリシャ語発音に近い表記をしていたものがロシア語風に変更されたりしたことであった。文法的には、例えばロシア語で廃止されていた呼格は冷遇された。全体的に、1930年代以降ウクライナ語はロシア語的な東部方言に近いものとなっていった。ロシア語と異なる正字法(文字)・語彙・文法は、「サボタージュ 」や「分離主義的」であるとして排除されていった。
ウクライナ共産党員への粛清も凄惨を極めた。ソ連での大粛清に先立ち、1932年頃からウクライナでは粛清が始められた。1933年の飢饉の責任がウクライナ共産党員に押し付けられ、彼らに対する批判が公然と行われるようになった。また、1920年代にウクライナ化政策を推進した中心的な党員が皆自殺したり、あるいは逮捕されその後二度と姿を現さなかった。1933年から1934年までの1年間で、ウクライナ共産党は10万の党員を失ったとされる。1930年代後半になると、ウクライナ政府の閣僚17人全員が逮捕され、処刑された。ボロチビスト出身のパナース・リューブチェンコ首相は自殺した。ウクライナ共産党員の内17万人が粛清された。こうして、ウクライナの自治組織は壊滅した。かわって投入されたのは、スターリンの部下たちであった。
1937年、憲法の承諾のもとで国名の単語の順序が入れ替えられ、国号は正式に「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」となった。翌1938年には、スターリンの側近であるニキータ・フルシチョフがウクライナ共産党第一書記として送られてきた。
共和国の首都は、1918年から1934年まではハルキウに置かれていた。これは、キエフ・ルーシ以来の中心都市キエフがロシア内戦期にウクライナ民族主義の中心となったため、同地を避けての措置であった。1934年、首都はキエフに移された。戦間期において、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国では東ウクライナ、特にドンバスを中心に重工業が発展した。また、ヨーロッパの中ではもっとも土地の豊かなウクライナはソ連の食糧生産の中心地ともなった。
1939年のナチス・ドイツのポーランド侵攻によりポーランドへ侵攻した赤軍は、リヴィウの戦いに勝利するなどしてリガ条約で失ったウクライナの領土の内ポーランド領となっていた部分をすべて取り返した。これらは、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ組み込まれた。
大祖国戦争(独ソ戦)の期間には、ウクライナはもっとも激しい戦闘地のひとつとなり、第二次世界大戦中もっとも多くが死亡した地域となった。一部のウクライナ人は反ソ連組織を作りパルチザン活動を行ったが、それに対しソ連政府はウクライナの南方戦線を「ウクライナ戦線」と改名しウクライナ人を前線へ投入した。多くの町がソ連軍やドイツ国防軍によって破壊された。
戦後、ウクライナは目覚しい復興を果たし、かつての繁栄を取り戻した。天然資源関係以外のほぼすべての産業がウクライナで発展し、ウクライナは再びロシアの繁栄に欠くべからざるものとなっていった。なおウクライナは国際連合創設に携わり、ソ連とは別のソビエト連邦構成共和国として、国連総会に議席を持っていた。このような措置はソ連構成国では、他に白ロシア共和国があるのみだった。
1954年1月18日には、ロシアとウクライナが対ポーランド協力を取り決めたペレヤスラフ協定締結の300周年記念として、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からクリミア半島がウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ譲渡された。しかしこれが後の2014年クリミア危機の原因となる。
1986年には、領内のチェルノブイリ原発で大規模な事故が発生し、ウクライナソビエト領内外にまで放射線が飛び現在も影響は続いている。
1991年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が主権宣言を行うと、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は8月24日、国家の独立を宣言した。これに伴い、ウクライナ共産党は解散し、国号も「ウクライナ共和国」を経て、ウクライナに改められた。
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の時代には、多くの教会やシナゴーグが破壊された[1]。
スターリン後のウクライナの都市化は急速に進んだ。1959年には人口10万人以上の都市は25しかなかったが、1979年には49にまで増えた。この間、人口100万人以上の都市は1つから5つに増え、キーウに関しては1959年の110万人から1979年には210万人とほぼ倍増した。これはウクライナ社会の転機となった。ウクライナの歴史上初めて、ウクライナ人の大半が都市部に住み、1979年にはウクライナ人人口の53%が都市部に住んでいたのである。大多数は非農業部門で働いており、1970年には31%のウクライナ人が農業に従事していたが、対照的に63%のウクライナ人は工業労働者とホワイトカラーであった。1959年にはウクライナ人の37%が都市部に住んでいたが、1989年には60%に増えている[2]。
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