ヘーチマン国家は「ザポロージャのコサック軍」とも呼称されていた。その領土は、ドニプロー川を軸にして現在の中部ウクライナから南ベラルーシまで拡大していた。面積はおよそ20万km²の面積で、人口は約300万人であったという[3]。1660年代までの国家の首都は、キエフやザポロージャではなく、フメリニツキーの故郷、チヒルィーンの城に置かれていた。ペレヤースラウ条約締結後は領域は左岸のみとなり、首都はウクライナ北部のバトゥールィンになった。マゼーパの反乱の後、バトゥールィンはロシア軍により懲罰として破壊され住民は虐殺され、首都はさらにロシア国境に近いフルーヒウへと移っている。
ヘーチマン国家の国家構造は、そのコサック軍的な要素で特徴付けられている。国家元首は、コサック全員による大会議により終身選任され、国内の最高立法権・行政権・裁判権を有するコサックの長であるヘーチマンが担い、その下でコサック軍の軍隊階級に準じた役職が各階層でラーダ(会議)を持ち、国家の運営に当たった。ヘーチマンの下には、ヘーチマン・ラーダが置かれた。ヘーチマンの側近はヘネラーリナ・スタルシーナ(大長老衆)と呼ばれ、ヘネラーリヌィイ・オボーズヌィイ(大輜重官、軍隊では大将相当)、ヘネラーリヌィイ・スッヂャー(大裁判官)、ヘネラーリヌィイ・プィーサル(大書記官)、ヘネラーリヌィイ・ピドスカールビイ(大主計官)、ヘネラーリヌィイ・ホルーンジイ(大軍旗手官、軍隊では中将相当)、ヘネラーリヌィイ・ブンチュージュヌィイ(大ブンチューク手官、軍隊では少将相当)、2人のヘネラーリヌィイ・オサヴール(大オサヴール、軍隊の階級名)からなっていた。大長老衆は、選挙によって選出された。この他、臨時職としてナカーズヌィイ・ヘーチマン(任命ヘーチマン、ヘーチマンの代官)が置かれたこともあった。
こうした役職は、それぞれ国の行政、司法、立法、軍事、外交などを司った。その最高機関はヘネラーリナ・ヴィイシコーヴァ・ラーダ(大軍事会議)で、ヘネラーリナ・スタルシーナによって運営された。ヘネラーリヌィイ・スッヂャーは、最高司法機関であるヘネラーリヌィイ・ヴィイシコーヴィイ・スード(大軍事法廷)を運営した。ヘネラーリヌィイ・プィーサルは、最高行政機関であるヘネラーリナ・ヴィイシコーヴァ・カンツェリャーリヤ(大軍事行政府)を運営した。ヘネラーリヌィイ・ピドスカールビイは、ヘネラーリナ・スカルボーヴァー・カンツェリャーリヤ(大主計行政府)を運営した。
ヘネラーリナ・スタルシーナの下には、ヴィイシコーヴァ・スタルシーナ(軍事長老衆)が置かれた。その下に置かれたのがポルコーウヌィク(軍隊では大佐相当)であった。ポルコーウヌィクはポルコーヴァ・ラーダ(連隊会議)を持ち、国家の基幹である「ポールク」(連隊)を運営した。その下には、ソートニャ(百人隊)を運営するソートヌィク、最小単位であるクリーニを運営するクリンヌィーイ・オタマーン(クリーニの棟梁)が置かれた。こうした組織は、それぞれにラーダを持っていた。
全体として国内の連隊の数は常に16を超えていた[4]。連隊制とは別に、コサック国家内で自治制を保つウクライナ・コサックの根拠地ザポロージャのシーチ(英語版)が存在し、それはヘーチマンの直轄地とされ、ヘーチマンに任命された連隊長と違って、シーチのコサックが選ぶコサック大長官によって治められた。
社会は、コサック・貴族・聖職者・町人・農民という階級に分かれており、国権はコサックのみによって発動されていた。コサック以外の階級は国政運営から切り放されていたが、貴族と聖職者は身分権・領地自治権が保障されており、町人はドイツ法に基づく自治権を有していた。また多く農民は、フメリニツキーの乱によって農奴から解放され、自由な所有者となり、税金と引換えに土地を所有することが許された。フメリニツキー統治下のコサック国家では、階級の境界は柔軟で、貴族と町人はコサックになることが多かった[5]。
従来のコサックの習わしによれば、国政はヘーチマンとコサック全員との大議会で行うはずであったが、フメリニツキー時代のコサック国家の大議会はほとんど開催されることなく、国政に関するすべての判断はヘーチマンの独断かヘネラーリナ・スタルシーナ(大長老衆)との相談によって決められていた。国の財政を握ったのはヘーチマンのみであり、国家予算の内容は戦利品と徴税からなっていた[6]。