Loading AI tools
ウィキペディアから
アントニオ・パチェコ・マソー(Antonio Pacheco Massó 1964年6月4日 - )は、キューバのサンティアーゴ・デ・クーバ州出身の元野球選手(内野手)。右投右打。
1980/1981シーズンから2001/2002シーズンまで22シーズンに渡り、キューバ国内リーグであるセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル(SNB)のアビスパス・デ・サンティアーゴ・デ・クーバに所属。キューバ代表の主将を務め、オマール・リナレスやオレステス・キンデランとクリーンナップを担った。1983年のパンアメリカン競技大会から代表入りをして、以後2001年までの25の国際大会のうち11大会で打率4割以上を打った。守備でも軽々としたフットワークから強い送球で走者を刺す二塁手であった。
2002年のシーズン中、キンデランとともに社会人野球のシダックスに入団。翌2003年から監督に就任した野村克也の指導の下でキンデランとクリーンアップを打ち、チームの打撃の中核を担った。同年行なわれた第74回都市対抗野球大会では準優勝に貢献したが、その翌月にアキレス腱を痛めてシーズン後半は欠場を余儀なくされ、翌2004年も負傷の影響で前年ほどの活躍はできなかった。同年限りで現役を引退しキューバに帰国した。
2011/2012シーズンにエンリケ・エステバン・ディアスによって破られるまで、SNBの通算最多安打記録(2356安打)を保持していた。
帰国後、2004/2005シーズンから2010/2011シーズンまでアビスパス・デ・サンティアーゴ・デ・クーバの監督としてチームを率いた。その間、2004/2005シーズン、2006/2007シーズン、2007/2008シーズンにチームをシリーズ優勝に導いた[1]。
また2008年の北京オリンピックでは代表監督に就任。キューバを銀メダルに導いた。
2014年にアメリカ合衆国フロリダ州に移住[1]。2015年にニューヨーク・ヤンキース傘下ルーキー級GCLヤンキース(現FCLヤンキース)のコーチに就任し[2]、2016年からはA+級タンパ・ヤンキースの守備コーチを務めた[2]。その後もヤンキースの新人部門のコーチを歴任し、2023年からは再びFCLヤンキースの守備コーチを務めている[3]。
1853試合、7045打数、2356安打(歴代2位)、打率.334、366二塁打、63三塁打、284本塁打、1304打点(歴代3位)、
出塁率.399、長打率.525、OPS.924、741四球、77敬遠、73死球、834三振、60盗塁、44盗塁死[4]
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.