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アブー・サイード・ハン(アラビア語: ابو سعيد خان Abū Sa`īd Khān、1304年6月2日 - 1335年11月30日)は、イルハン朝の第9代君主(在位:1316年 - 1335年)。父は第8代君主のオルジェイトゥ。名はアル・スルターヌル・アーディルともいわれ、「正しいスルタン」を意味する。アブー・サイード・バハードゥル・ハン(ابو سعيد بهادر خان Abū Sa`īd Bahādur Khān)とも呼ばれる。漢語史料では不賽因と表記される。
1316年に父が死去すると廷臣に推戴されてハン位を継いだ。若年のため、政務は父時代の宰相であるラシードゥッディーン(ラシード)やタージェッディーン・アリー・シャーらが担当し、また王朝の軍総司令官で後見人でもあるチョバンも補佐を務めた。アリー・シャーとラシードは常に対立しており、アリー・シャーの一味による讒言を受けたアブー・サイードは1317年10月にラシードを宰相職から罷免した。1318年7月18日、アリー・シャーに買収された廷臣から、ラシードが父オルジェイトゥを毒殺したという告発を受けると、ラシードとその息子でオルジェイトゥのシャーベット係(Sharbat-chi)として近侍していたイブラーヒームを処刑した。同年にジョチ・ウルスのウズベク・ハンがカフカスを越えて攻め込むと、侵入を阻止せんと2000のわずかな手勢を率いて出陣するが、交戦前にチョバン進軍の報告を聞いたウズベクは撤退した。
チョバンに厳罰を科された将校がチョバン暗殺を企てると、サイードは軍を率いてチョバンを助けてかつての恩に応えた。1320年にチョバンとサイードの妹サティ・ベクが結婚、アリー・シャーの失脚(進退窮まって自殺したと考えられる)後、国政は財務総監(サーヒブ・ディーワーン)にはラシードゥッディーンの息子ギヤースッディーン・ムハンマドが復権し、チョバンとその一族が担った。1323年にはマムルーク朝のスルタン、ナースィル・ムハンマドと和睦を成立させる。
ところがサイードは成長するにつれ、チョバンの権勢を憎悪するようになった。更に1325年にはチョバンの娘であるバグダード・ハトゥンに横恋慕してしまう。彼女は既にイルハン朝の有力なアミールであったシャイフ・ハサン(大ハサン)に嫁いでいたのだが、サイードは彼女を強引に妃にしようとした。チョバンはこれを憂えて、サイードに冬営地をバグダードにするべきと進言する一方で、娘夫婦をアフガニスタン南部のカラバクに移した。彼にすれば君主の一時的な横恋慕で引き離せば解決すると考えたのだが、サイードの恋心は募るばかりであった。そして1326年に自らの恋を邪魔するチョバンと一族は専横がすぎるとしてその討伐を決意。これに対してチョバンも対抗したが、ほとんどのアミールはサイードを支持してチョバンはヘラートに逃亡する。だがチョバンと息子たちは1327年に殺害され、バグダード・ハトゥンもサイードの妃となった。
以後は王朝を主導する有能な名臣は現れず、重臣間の権力闘争と反乱が相次いだ。若年のサイードはこれを抑制することができず、また王朝内の混乱を見てウズベク・ハンが1334年に再度侵攻する。1335年にサイードはこれを迎撃しようと出陣するが、11月30日に陣中で病死した。31歳没。
サイードには嗣子がおらず、アルグン系統の嫡流はこれをもって断絶した[1]。宰相ギヤースッディーン・ムハンマドなどイルハン朝の諸臣たちは、メリク・テムルの曾孫でホラーサーン方面を管轄していたアルパ・ケウン(家祖フレグの同母弟アリクブケの玄孫)を擁立した。
その他、氏名不詳の妃が多数いる。
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