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ガザン・ハン(ペルシア語:غازان خان Ghāzān khān, 1271年11月4日 - 1304年5月17日)は、イルハン朝の第7代君主。第4代君主アルグンの長子で、第8代君主オルジェイトゥの兄に当たる(在位:1295年11月3日 - 1304年5月17日)。『元史』などにおける漢字表記は合贊。
1291年に父アルグンが没した後、父の弟であるガイハトゥが後を継いで君主となったが、失政を続けた結果、1295年に従兄弟に当たるバイドゥに殺害された。ガザンはその半年後、バイドゥに対して反乱を起こして彼を滅ぼし、イルハン朝の第7代君主として即位することになったのである。
ガザンは、アルグンが即位する以前の1284年には既にチャガタイ家の王族ウマル・オグル(フレグの西征に参加したテグデルの長男)とともに多数のアミールらと、アルグンと係争を続けていたテグデル・アフマド・ハンへ和平に臨んでおり、早くからホラーサーン方面の諸軍を統率する立場にあったことがわかる。父アルグンは即位以前にホラーサーン方面を統括していたが、テグデル・ハンの討滅によって自ら即位することになったアルグンの愛息子として、ガザンは父に成り変わり東方領域の統括を任される事となった。
アルグンは1284年の即位のおりにイルハン朝の諸地方をフレグ家の諸子に分封している。すなわちバグダードの統治権従兄弟の王侯バイドゥに、ディヤールバクル方面の統治権は同じく従兄弟でフレグの次男ジョムクルの嗣子ジュシュケブに、ルーム方面はフレグの十二男フラチュに、グルジア方面はフレグの八男アジャイにである。そしてアルグン自らの嗣子ガザンにはホラーサーン、マーザンダラーン、レイを含むクーミス地方が与えられ、その副官(ナーイブ)にジュシュケブの弟である王侯キンシュウとアルグン・アカの息子でホラーサーン・カラウナス万戸隊長であったノウルーズが付いた。
バイドゥ、ノウルーズらはガザン登極までにガザンとイルハン朝内部の覇権を争った人物であり、アルグンの治世中でもその動向は不穏でありたびたび叛乱・離反をくり返した。ガザンは王族・諸部族長同士の紛争が絶えなかったフレグ・ウルスで、成人したばかりの十代前半からその渦中に少年青年時代を生きたのである。
ガザンは、本来父アルグンの影響で仏教を信仰していた事が知られている。フレグ家がイスラームに改宗する以前はチベット仏教などに多大な寄進を行っていたことが判明しており、ガザンの封領ホラーサーン地方のハブーシャーンにおいて数座の仏寺が建立され、また首都タブリーズにおいてはフレグ時代に遡る仏寺の遺跡が二ケ所現存している。ガザンのイスラームへの改宗はバイドゥとの王位継承戦において、先のノウルーズが苦境に陥っていたガザンに、ガザン自身がイスラームに改宗する事によって全イスラーム教徒の支持を受けられることが出来ると力説した話が伝えられている。当初ガザンはこれを即決出来なかったようだが、再びノウルーズからヒジュラ暦690年(1290)代に「イスラームの帝王」が出現しイスラームの宗教と民衆を復興するだろうという予言を聞くに及んで、改宗の決断をしたという。
1294年6月16日(ヒジュラ暦694年シャアバーン月1日)にラル・ダマーヴァンド平原の父ゆかりのクーシュク(亭の類い)において、沐浴と衣替えなどの決斎ののち玉座のもと、特別に設えた王族用のテント式移動用モスクでシャハーダ(信仰告白)を行いイスラームに改宗した。
このシャハーダを先導したのはクブラヴィー教団の高名なシャイフであったシャイフ・サドルッディーン・イブラーヒームという人物だったことが知られており、これにならってガザン麾下の諸将および兵士諸軍が改宗に連なったという。
1295年10月4日にガザンはバイドゥを討ち破り、イルハン朝の第7代君主に即位した。ガザンは即位にあたって公に「イスラームの帝王(Pādshāh-i Islām)」を自称し、ムスリム名として「マフムード・ガザン(Maḥmūd Ghāzān)」を名乗った。
これに伴い即位初年の勅令(ヤルリク)はイスラーム以外の主要建造物、すなわち仏教寺院(ブトハーネ、マウブード)、ゾロアスター教寺院(アーテシュキャデ)の破壊命令が発せられ、キリスト教会堂(キャリーサー)、ユダヤ教会堂(キャニーセ)もまたそれに続いて破壊を蒙ったという。既にテグデル・ハンの時代にテグデル自身も含めモンゴル軍民のイスラーム化の徴候が出始めていたが、このガザンの治世によって、イルハン朝は既存のモンゴルの国家体制や慣習などを維持しながらも国家規模のイスラーム化を推進していくこととなる。
さらに1298年、改宗したユダヤ教徒の一族に属するラシードゥッディーンを宰相にして財政改革やイルハン朝の支配体制強化に努めた。また、ガザンは1300年、ラシードにガザンの治世に至るチンギス・カン家諸王家と、フレグの遠征以来イルハン朝領内に展開していたのテュルク・モンゴル系諸部族の歴史をまとめた「モンゴル史」の編纂を命じた。これはガザン没後の1310年に次代のオルジェイトゥの命で再編集・完成して14世紀以降、イラン・中央アジアで最大規模の歴史書である『集史』となり、その後のオスマン朝を含むこれらの地域の歴史叙述に決定的な影響を及ぼした。これらの施政によって政治的・文化的にイルハン朝は大いに発展した。
1304年5月17日、34歳で病死した。遺骸はタブリーズへ運ばれ、生前タブリーズ郊外のシャンブの地に建設したガーザーニーヤという名のワクフ複合施設の廟墓に埋葬された。ガザンの後は、弟のオルジェイトゥが兄の指名通りハン位を継いだ。このガザンと後を継いだオルジェイトゥ2人の時代に、イルハン朝は全盛期を迎えたが、彼ら兄弟はいずれも寿命と在位期間が短かったことが、その全盛期を短期間で終焉させ、イルハン朝を滅亡へ導く一因となった。
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