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T-4(ロシア語:T-4)は、ソ連のスホーイ設計局が試作した超音速爆撃機である。
ロシアの中央空軍博物館(モニノ空軍博物館)に展示されているT-4 101号機
(2005年の撮影)
当機は機体総重量が100tである事から、«製品100»(ロシア語:«Изделие 100»)とも呼ばれ、愛称の«сотка»(Sotka[1])、の名でも知られる。なお、当機を展示しているモニノ空軍博物館ではSu-100と掲示されている。
NATOコードネームは与えられていないが、アメリカ国防総省は当機にラム-H(Ram-H)のコードネームを与えていた。
1960年代初期に、スホーイ、ヤコヴレフ、ツポレフの3設計局に対して、戦略偵察機を兼用するマッハ3級のミサイル搭載高高度爆撃機の開発要求が出された。各設計局はそれぞれT-4、Yak-33、Tu-135の案を提出した。1963年に競合の結果、ヤコヴレフ、ツポレフの案では要求性能を満たせないとしてT-4が選定され、1964年の国家航空機技術委員会の審査をクリアした後は、TsAGIでの風洞実験やSu-7U・Su-9改造機によって30以上の形態が考案され、1966年には空軍にモックアップが発表された。翌年にモックアップ審査会の審査が行なわれたが、1966年の時点でTMZ(ツシノ機械製作工場)にて飛行1号機(101)と強度試験機(100S)の2機の製造が進められていた。
飛行1号機は1971年に完成し、ジュコウスキー飛行場にて数回の走行試験の後翌年8月2日に初飛行した。
動画 https://www.youtube.com/results?search_query=T4+Sotka
機体自体は細かな問題が発生したものの支障は無く2~6号機も発注されており、2号機と3号機の製造、および4号機の製造準備も始まっていたが、1974年1月22日の10度目の飛行試験をもって計画中止となった。空軍が要求した1970年から1975年の5ヵ年計画でのT-4 250機発注とMiG-23大量発注が両立できなかった為と、XB-70同様に低空侵攻に移行できないT-4よりTu-22Mが優先された事が原因であった。
計画中止の後、強度試験機と製造中の2~4号機はスクラップとして処分されたが、飛行1号機は保管され、1976年1月27日をもって正式に退役扱いとなった後、1982年にはモスクワの東にある空軍中央博物館(モニノ空軍博物館)に移され、2017年現在も展示されている。
当機は、従来のアルミニウム合金ではマッハ3における空力加熱の高熱に耐えられないため、それに代わってチタン合金を使用している[2]。機体の操縦にはソ連初のフライ・バイ・ワイヤ(4重の全自動方式)が採用された。エンジンはTu-144に搭載されたコレゾフ RD-36-51と同系統のエンジンであるRD-36-41 ターボジェットエンジン4基を備え、燃料はアメリカのJP-7に相当するRG-1と呼ばれる特別な燃料を使用する。
機首にはTu-144に似た上下機構が搭載されていた。これは着陸時の視界向上と超音速飛行時の抵抗削減を両立させることが目的で、機首は700km/h以下で飛行している時に限り下げた状態にすることが可能となっていた。機首上げ状態では操縦席前方は機首先端部と一体になるため、前方視界は全くなく、計器飛行のみで飛行した。機首上げ状態での視界を補助するため、パイロット用には潜望鏡が用意されていたが、使用できるのは600km/h以下で飛行している状態に限られた。
なお、当初からミサイル母機として開発されたために爆弾倉を持たず、主兵装のKh-45 長距離空対地ミサイル2発は翼下に懸垂されて搭載される設計であった。
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