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M18(76mm Gun Motor Carriage M18:76mm自走砲車 M18)は、第二次世界大戦中に生産・使用されたアメリカ合衆国の対戦車自走砲(戦車駆逐車)である。
性能諸元 | |
---|---|
全長 | 6.66m(砲身含む) |
車体長 | 5.28m |
全幅 | 2.87m |
全高 | 2.56m |
重量 | 17.7t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 80km/h |
行動距離 | 161km |
主砲 | 52口径76.2mm戦車砲M1(45発) |
副武装 | 12.7mm重機関銃M2×1(800発) |
装甲 |
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エンジン |
コンチネンタル R-975-C1(後にC4) 空冷星型エンジン 400馬力(後に460馬力) |
乗員 | 5名 |
非公式の愛称は"ヘルキャット"(HellCat:性悪女の意)。
アメリカ陸軍において対戦車戦闘を行う戦車駆逐大隊の装備として、M4中戦車のシャーシを流用し、3インチ(76.2mm)砲を搭載したM10とはまた別に、より軽装甲で高速なヒット・エンド・ラン戦法向きな車輌の開発が進められていた。
ビュイック社が設計[1]。エンジンにライト・コンチネンタルR-975(400馬力)を搭載[1]。重量を軽減するため装甲を薄くし無蓋の砲塔とし高速性(最高80km/h)を実現した[1]。
当初予定されていた37mm砲は、対戦車用途としてはもはや使い物にならないため、57mm砲を普通の戦車と同じ密閉型旋回砲塔に搭載し、クリスティー式サスペンションを持つ対戦車車両、T49 GMCが試作された。これは、算盤の玉型のオープントップ砲塔に3インチ砲を搭載するT67 GMCに発展。さらに大幅な改良が加えられ、砲塔形状が変更されサスペンションをトーションバー式に、起動輪を後部から前部に移動したT70 GMCとなり、これが76mm GMC M18として制式化され、1943年7月-翌年10月までに、合計2,507輌がビュイック社によって生産された。
M18は、圧延鋼板を溶接して組み上げた構造で、当時の米国戦車のずんぐりしたスタイルとは異なる、戦後戦車風の洗練されたシルエットであった。エンジンは、M3中戦車系とM4中戦車系でも使われていた空冷星型のコンチネンタルR975だが、これら中戦車の車高を上げる一因だった斜めに伸びた伝導シャフトを、トランスファーとユニバーサルジョイントを介して床板と水平に這わせ、エンジングリルだけを盛り上がった形状にしてスペースを確保することで、車高を抑えている。更に車体後部を開き、ガイドレールに載ったエンジンを引き出すことができるなど、整備性も大変優れていた。
装甲は、一番厚い砲塔前面部で1インチ(25.4mm)、他の部分でも0.5インチ(12.7mm)と薄く、重量は18 t以下に抑えられ、これに加えトーションバー式サスペンションの性能もあって、路上最大速度80km/hという、第二次世界大戦の装軌式装甲戦闘車両としては世界最速を誇った。車体には渡橋重量表示を示す18の数字(渡橋重量18t)が表示され、重装備に比べて車体は極めて軽量化されていた[2]。
定員は5人(車長、操縦手、操縦助手、砲手、装填手)[1]。後のM24軽戦車同様に、車体前部には操縦手と操縦助手が並んで座っており、どちらにも同じ操縦装置が設けられていた。
M18の主砲である76mm M1A1、M1A1C、M1A2戦車砲(名称では76mmだが、正確には口径76.2mm)は、M4A1(76)-M4A3(76)中戦車に搭載されたものと同じで、おおむねドイツ軍の7.5 cm KwK 40 戦車砲や7.5 cm PaK 40 対戦車砲に匹敵する装甲貫徹性能を持ち、高速徹甲弾を用いることでより高い性能を発揮した。
M1A1CとM1A2には、後に装薬量が多く反動が大きいAPCR弾に対応するため、砲口にダブルバッフル型のマズルブレーキが追加されたが、大戦中の車輌の多くには未装備のままであった。
また、敵戦車との遭遇率が下がるにつれ、火力支援用に駆り出されたが、この任務においては76.2mm砲よりも榴弾の炸薬量の多い75mm砲の方が有効であり、あまり適役とはいえなかった。この他にも、砲塔上部のリングマウントに12.7mm機関銃を搭載、現地改造で7.62mm機銃を砲塔右側に増設した車輌も確認できる。
M18の実戦参加は、1944年1月のイタリアのアンツィオ上陸作戦以降である。本車は、ドイツ軍が軽戦車を改造して作ったような、即席の対戦車自走砲とは比較にならないほど完成度が高く、機動性も優れていた。開発のコンセプトである機動性を活かしたヒット・エンド・ラン戦法で、M4シャーマンには難敵であった重装甲のティーガー重戦車やパンター中戦車の比較的装甲が薄い側面や後面に回り込んで撃破している。アメリカ軍第4機甲師団がドイツ軍第5装甲軍を撃破したアラクールの戦いにおいて、1944年9月19日の戦闘では、戦闘指揮所を攻撃してきた14輌のパンターをM18の小隊が迎え撃ち、一方的に8輌を撃破して撃退している。数日間にM18は39輌のドイツ軍戦車を撃破したが、損失は7輌であった[3]。
続くバルジの戦いにおいては、バストーニュの戦いで第705駆逐戦車大隊が活躍、得意のヒット・エンド・ラン戦法でドイツ軍戦車隊を翻弄、ティーガー重戦車を含む39輌の戦車、その他多数の車両を撃破して、バストーニュの防衛に大いに貢献し、バルジの戦いが終わったのちは、敵戦車との交戦も減り、主にトーチカなどの敵陣地への砲撃任務をこなしながらドイツ国内深くに進攻し、大量の捕虜を獲得している[4]。終戦までにM18はヨーロッパ戦線にて216輌を失ったが、損失以上のドイツ軍戦車を撃破し、全体的なキルレシオは2.3:1となっている[5]。
1944年のフィリピン戦や翌年の沖縄戦などの太平洋戦線でも実戦参加しているが、日本軍戦車に対しては過剰な攻撃力、小口径砲にも簡単に撃破される防御力はアンバランスであり、ほとんど支援砲撃用の自走砲として使われた。しかし、太平洋戦争最大の戦車戦が行われたルソン島の戦いにおいてはM18と日本軍戦車の交戦記録もある。1945年1月29日に、クラーク基地に進攻してきたアメリカ軍戦車隊に対して、戦車第2師団所属の岩下市平大尉率いる6輌の九七式中戦車(新砲塔チハ)が反撃、まず、新砲塔チハは遭遇したM7自走砲を撃破、そこにM18の駆逐戦車隊が駆け付け、1輌のM18が撃破されたが、4輌の新砲塔チハを撃破して撃退した。その後、M18隊は日本軍の迫撃砲の砲撃でさらに1輌撃破されている[6]。
試作型であるT70は参考用として、ソ連に5輌が送られ試験を受けている。しかし雪上での機動性に問題がある事、この試作型ではトルク不足で超壕能力が低い事、ソ連陸軍で一般的に使われていないハイオクガソリンを使用[注 1]し、ソ連軍自走砲に比べ燃費も良くない事、装甲が薄い等の理由で不要とされ、レンドリースは行われていない。
M18は戦後間もなくの戦車駆逐大隊の解散と共に、アメリカ陸軍から退役した。ただし、M18の武装のないバージョンであるM39は輸送用装甲車として朝鮮戦争でも実戦参加している[1]。
また、多くの車両がアメリカの友好国に供与、売却され、それらの国の中にはユーゴスラビア連邦もあった。ユーゴスラビアに供与された車両はイタリアの戦争映画『特攻大戦線』(原題:Corbari)を始め、現地でロケが行われた映像作品にドイツ戦車役他でよく登場している。
ユーゴスラビアへ供与された車両には、後にT-55の車体にM18の砲塔を載せた整備訓練用の自走砲に改造されたものもあった。この改造自走砲は後に連邦からの各共和国の独立を巡るユーゴスラビア紛争でスルプスカ共和国[注 2]の装備として実戦で用いられている。また、クライナ・セルビア人共和国軍がM18をクライナ・エクスプレスと名付けた装甲列車に搭載して砲台として用い、クロアチア軍との戦闘で使用した。
台湾(中華民国)にも供与され、その後M42対空自走砲の車体にM18の砲塔を搭載した合体車両が50両ほど製作され、「64式戦車(六四式輕戰車)」の名称で制式化されて装備されている。
ベネズエラに供与された車両は1990年代に入ってもなお75両がベネズエラ陸軍の予備兵器として保有されており、これらはユーゴスラビアの企業が寿命延長及び近代化改修を請け負っていた。
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