Loading AI tools
ウィキペディアから
M3中戦車(エムスリーちゅうせんしゃ、英語:Medium Tank M3)は、第二次世界大戦中にアメリカ合衆国で開発・製造された戦車。
性能諸元 | |
---|---|
全長 | 6.12 m |
車体長 | 5.64 m |
全幅 | 2.72 m |
全高 | 3.12 m |
重量 | 26.0 t |
懸架方式 | 垂直渦巻きスプリング・ボギー式(VVSS) |
速度 | 39 km/h |
行動距離 | 193 km |
主砲 | M2/M3-75mm戦車砲×1 |
副武装 |
M6 37mm戦車砲×1 M1919A4 7.62mm機銃×4(グラントは×3) |
装甲 | (前面)51 mm |
エンジン |
コンチネンタル R975-EC2 4ストローク空冷星形9気筒ガソリン ※M3/M3A1/M3A2 400 hp シンクロメッシュ式マニュアルトランスミッション(前進5速/後進1速) 前輪駆動 |
乗員 | 6~7 名 |
グラント(Grant)およびリー(Lee)という愛称でも知られるが、この2つの愛称はいずれもイギリス軍向けの仕様で生産されたものを南北戦争時の北軍将軍ユリシーズ・S・グラントの名をとってジェネラル・グラント(General Grant)、アメリカ陸軍向けの仕様のままでイギリス軍に引き渡されたものを南軍の将軍ロバート・E・リーの名をとってジェネラル・リー(General Lee)と命名したものである。
1939年9月の第二次世界大戦勃発からヨーロッパを電撃戦で席捲したドイツ軍機甲部隊は、主砲に50mm砲あるいは75mm戦車砲を装備したIII号戦車やIV号戦車を投入しており、37mm砲と機関銃8挺を搭載した歩兵部隊用に開発された戦車に過ぎないM2中戦車の劣勢は明らかであった。その時点でアメリカ軍が装備していた装甲車両は約400輌で、その大部分はM1軽戦車とM2軽戦車を主体としており、数十輌のM2中戦車とM2A1中戦車が残りを占めていた。
1940年6月にフランスが敗北すると、アメリカ陸軍では本格的な機甲部隊を発足させる計画が開始された。それまで別々だった歩兵戦車隊と騎兵機械化部隊の統合が行われた。
議会では中戦車1,500輌分の予算が承認され、1940年8月15日に、1年以内にM2A1中戦車を1,000輌生産する計画がクライスラー社と契約された。しかし次期中戦車は装甲を強化した上で 75 mm 砲を搭載することが決定され、この計画は直ちに書き換えられた。1940年8月28日のクライスラー社との契約で、M2A1中戦車に替わり新型のM3中戦車を生産することとなった[1]。
アメリカ陸軍において機甲部隊の整備責任者の一人であるアドナ・チャーフィー大将と兵器局の会談で、75mm砲を搭載可能な大型砲塔、砲塔リングなどを早急に設計するには兵器局は経験不足であるという警告がなされ、実際に量産可能なレベルには至っていなかった。そこで、大型砲塔が開発されるまでの繋ぎとして、T5中戦車の車体前面右側に75mm軽榴弾砲を装備するテストを行っていたT5E2中戦車の設計がM3中戦車に継承された。
その結果としてM3中戦車は、車体右側スポンソン(張り出し)部のケースメート(砲郭)式砲座に31口径 M2 75mm砲を備え、車体前部左側には前方固定式(俯仰は可能)のM1919 7.62mm機関銃2挺が連装式に備え付けられた。そして37mm砲に同軸のM1919 7.62mm機関銃を搭載した全周旋回砲塔と、砲塔上に7.62mm機関銃塔が備えられた車長用銃塔を備えた、変則的な形の戦車として完成した。
新機軸として、75mm・37mm 砲ともにウェスチングハウス社製のスペリー式ジャイロスタビライザー(砲安定装置)が装備された。これは現代のように高精度の走行間射撃が可能なものではなく、走行しながら目標に対し砲を素早く指向することができる程度で、トラブルが多発したため初期量産型では搭載されず、搭載された車両でも扱いが面倒であるとして使用しない兵も多かった。砲郭内に装備された75mm砲は同様に車体に砲を装備したルノーB1とは異なり、左右15°程度なら射角変更も可能である。車体と砲塔上の銃塔に装備された7.62mm機関銃には、他の多くのアメリカ戦車の車体前方機銃同様に照準装置が付いておらず、ペリスコープから曳光弾の軌跡や弾着を確認しながら射撃した。
2種の砲を搭載していることもあって乗組員数も多く、
の7名が搭乗した。なお、無線機を砲塔内に置き、基本的に車長が操作するものとした英国仕様のグラントは無線手を搭乗させない6名乗車が基本となっており、アメリカ仕様のリーもソビエトに供給されたものなどでは無線手もしくは砲塔弾薬手を搭乗させない6名乗車で運用されていた例がある。
車体の基本構成は共にT5中戦車を範とするM2A1中戦車とほぼ同じで、垂直渦巻きスプリング・ボギー式(VVSS)の足回りや、コンチネンタル社製の空冷星形9気筒ガソリンエンジンを搭載している点などは、1942年2月より量産開始されたM4中戦車にもそのまま引き継がれることとなった。
M3は空冷星型エンジンを横置きに搭載しているために基本的な車体高が大きく、さらにその上に銃塔付きの砲塔を持つために全体的に大きく嵩張る車両で、遠方から発見されやすく被弾しやすい(ただし、車高がある分、砲塔上の車長からの遠方視界に優れる、という利点はあった)、75mm砲は車体右側の低い位置にオフセットされているためにダッグイン(壕や遮蔽物に隠れて砲塔だけを露出させる戦法)が不可能などの不利があった。半ば強引に砲郭式に主砲を搭載していること以外にも、ドライブシャフトが戦闘室内を貫通している構造で、操縦手は変速機の上にシートを設けて座る構成になっているなど、急造品ゆえの洗練されていない箇所も見られる。
M3は1941年1月に先行試作型が完成し、同年4月から生産が開始された。第二次世界大戦参戦前でありながらも大量生産が開始され、イギリス軍へ供与されると共にアメリカ軍への配備が進められた。1941年から翌1942年12月の生産終了までに全型合計6,258輛が生産され、M4戦車配備までのストップギャップとしての役割を充分に果たした。前述のような問題点も多かったものの、同時期の枢軸軍戦車に比べると火力と装甲、そして機関と走行装置の信頼性では勝っており、イギリス軍においても供与が開始された時点ではどの戦車よりも総合的な能力では勝っていた。
開戦後は戦訓によって、防御上の問題点とされた車体側面ハッチの廃止[注 1]、操縦手用ペリスコープの追加、車体砲への同軸光学式直接照準器の追加と長砲身40口径 M3 75mm戦車砲(M4戦車の主砲と同じ砲)への変更、といった改良も随時行われている。 なお、車体砲の内装式防盾構造は被弾による変形や回転部に挟まる弾片によって旋回・俯仰不能に陥る事態が多発したため、外装式防盾に設計を変更することが企画されたが、本車はあくまでより本格的な戦車であるM4への“繋ぎ”であるとされたため、設計変更はされぬままに終わった。
車体を流用してM31戦車回収車やM33牽引車として改造された車両も多く、これらは戦車砲は撤去されているが、非武装であることが一目でわからないように、車体砲郭部へパイプで作られたダミーの75mm砲を備えた車両が多い。このダミー砲郭はハッチとして開閉可能で、車体前部からの出入り口として重宝された。
戦後、ソミュール戦車博物館を始め、各地に展示されているM3中戦車は戦車回収車型や裝軌牽引車型に砲塔を載せてM3らしく復元した車両が多く、注意深く観察すれば、75mm砲はダミー砲郭そのまま(砲の根本に防盾がなく、擬砲は完全に固定されており上下動不可能)なので判別が可能である。
フランス北部ダンケルクの戦いでの大規模撤退作戦(ダイナモ作戦)で大量の戦車を失っていたイギリスは、アメリカにイギリス向けの戦車を生産させたいと考え、M3中戦車を希望に沿って改修した車両をイギリス軍向けに製造してもらうことで合意した[1]。この設計はイギリス人のチームが行った[1]。
イギリス軍では車長近くの砲塔内に車載無線機を搭載することを重視したため、これのために砲塔を設計変更し後部に張り出しを設けることになった。アメリカ軍向けでは砲塔上部に7.62 mm 機関銃を搭載した全周旋回可能な銃塔型キューポラがあったが、イギリス軍向けでは単純なハッチに変更された。細部の設計が終了して、最初の試作車は1941年3月13日に完成し、最初のイギリス軍仕様の砲塔を搭載したM3中戦車が完成したのは同年7月だった。砲塔以外の違いとして操縦手用のペリスコープや全周型サンドスカート、新型履帯などが生産中に導入された[1]。
イギリス政府はアメリカ国内の数社と2,085輌の生産契約を行なったが、1941年3月のレンドリース法の成立に伴い、この契約はアメリカ政府が肩代わりすることになった。グラント型砲塔の生産数は1,660基ほどで、大半はM3の車体に搭載されてグラント Mk.Iとして完成した。
イギリス型のグラント Mk.Iはボールドウィン、プレスド・スチール・カー・カンパニー、プルマン・スタンダード・カー・カンパニー製だったが、戦闘での損失率が高かったために生産が追いつかず、アメリカ軍仕様のM3中戦車も受領し、これはリー Mk.Iと呼ばれた[1]。リーのイギリス仕様として、砲塔の機銃塔を外し代わりにグラントのハッチを装備した通称「リー・グラント(Lee Grant)」も存在した。しかし、実際はイギリス軍部隊では砲塔の違いにかかわらずひとくくりに「グラント」と呼ぶのが普通だった。
少数ながらM3A3ベースのグラント砲塔型も作られたが、M3A3は砲塔の種類に関わらずリー Mk.Vという名称が設定された。また、M3A5は砲塔の種類にかかわらず、グラント Mk.IIと呼ばれた。なお、M3A1、M3A2およびM3A4はイギリス軍には供与されておらず、イギリス仕様の呼称のみが設定されている。
アメリカ軍形式名 | 砲塔形状 | イギリス軍名称 | 車体構造 | エンジン | 生産数 | イギリスへの供与 |
---|---|---|---|---|---|---|
M3 | アメリカ型 | リー Mk.I | リベット接合 | コンチネンタル R-975 ガソリンエンジン | 3,528 | ○ |
イギリス型 | グラント Mk.I | 1,296 | ○ | |||
M3A1 | アメリカ型 | リー Mk.II | 鋳造 | 272 | × | |
リー Mk.IV | ギバースン T-1400-2 ディーゼルエンジン | 28 | × | |||
M3A2 | アメリカ型 | リー Mk.III | 溶接 | コンチネンタル R-975 ガソリンエンジン | 12 | × |
M3A3 | アメリカ型 | リー Mk.V | ゼネラルモータース GM6046 ディーゼルエンジン | 322 | ○ | |
イギリス型 | ||||||
M3A4 | アメリカ型 | リー Mk.VI | リベット接合 (長車体) | クライスラー A57 マルチバンクガソリンエンジン | 109 | × |
M3A5 | アメリカ型 | グラント Mk.II | リベット接合 | ゼネラルモータース GM6046 ディーゼルエンジン | 591 | ○ |
イギリス型 |
M3中戦車はまずは北アフリカの砂漠でイギリス軍の巡航戦車として活躍した。従来のイギリス製巡航戦車が装備した2ポンド砲や6ポンド砲は当初、砲弾が徹甲弾しか準備されておらず、榴弾が配備されていない[注 2]という深刻な問題を抱えていた。強力な榴弾を発射でき、かつ対戦車戦闘でも有効な75 mm 砲を装備したM3中戦車は大変よろこばれた[1]。同時期に導入されていたクルセーダー巡航戦車よりも機械的信頼性が高かった[1]。
しかし37 mm 砲と75 mm 砲と二つの砲を備えるのは車長の指揮の上で煩わしく、車体に主砲を装備する配置は理想とはかけ離れていた。砂漠の戦闘で高い車高は良好な視界を得ることができたが、敵に対して遠方からでもよく目立つため、格好の標的にもなった。75 mm 砲の搭載位置の関係で車体を地形に隠すハルダウンを行うことも出来ず[1]、75 mm 砲は大きく仰角が取れるにもかかわらず潜望鏡式照準器が間接照準に不向きなものであったため、間接射撃による支援任務を行うことが難しく、これらの点から運用にも制限があり、車高の高さを活かせない上、欠点をフォローできないとして不評だった。
1942年も半ばになるとあらゆる面で優れたM4中戦車(シャーマン)がイギリス軍に配備されるようになったが、M3は1943年5月にドイツ軍が北アフリカから撤退するまで対戦車戦闘に用いられた。その後、M3中戦車はオーストラリア軍に回され、太平洋の戦場で使用された。その後もイギリス軍に残った車輛はビルマ戦線での反攻に投入され、まともな対戦車火器を持たない日本軍相手に多大な威力を発揮した。
アメリカ軍はトーチ作戦やその後のチュニジアの戦いでM3中戦車を用いていたが、実戦経験の不足もあり、ドイツアフリカ軍団のIV号戦車やティーガーI重戦車の前に大きな損害を出してしまった。中戦車として実戦投入されたのはシチリア島上陸作戦やイタリア戦初期の頃までで、M4中戦車が戦列化するとともにその価値は失われていった。その後は訓練用に用いられたり、本車をベースにM31戦車回収車やM33装軌式牽引車等に改造され戦争終結まで使用された。
M31やM33は概ね好評で、M4やM5をベースとした戦車回収車や牽引車が開発・配備された後も、それらの車両より使い勝手が良かった上、支援車両としては十分過ぎる装甲を有していた為、砲兵の中にはM33牽引車に固執する部隊もあったという。
M3中戦車はレンドリース法による援助の一環としてソビエト連邦にも送られた。ソビエト赤軍ではM3は同じく供与されたM3軽戦車と区別するために“М3с"[注 3](М3(Эм три)средний. "средний"とはロシア語で“中型”の意)”と命名されたが、イギリス軍および英連邦諸国軍での名称である“リー(ロシア語: Ли)”もしくは“グラント(Грант)”という呼称も使われている。将兵の間ではM3は仕様に関わらず“グラント”と呼ぶ傾向があった。
これらの呼称の他に、その大柄で車高のあるデザインから “каланча”(火の見櫓 の意)や“двухэтажный / трёхэтажный”(二階建て/三階建て の意)、“одоробло”(大きくて嵩張る物、の意)というニックネームが付けられたが、車高があり遠方から発見されやすく、被弾しやすい上に被弾時の発火性が高い(後述)ことから、“братская могила на шестерых / братская могила на семерых”(6人用/7人用共同墓地、の意)などと呼ばれ、ここから“ВГ-7”(верная гибель 7(семерых):確実なる7人の死、の意) / “БМ-7”(братская могила на 7(семерых):7人用共同墓地(上述) という略号も生まれた[2][3][4]。
M3中戦車は供与が開始された1941年から1943年にかけて、ガソリンエンジン搭載車とディーゼルエンジン搭載車の両方、各型合計1,386両がアメリカからソビエト連邦に引き渡され[5]、そのうち417両が輸送中にドイツ海空軍の攻撃により輸送船ごと失われて未着となった[注 4]。
赤軍においては1942年から部隊が編成され、同年5月の第二次ハリコフ攻防戦に始めて実戦投入された。M3中戦車はクルスクの戦いにも装備部隊が投入されており、この際に撮影された写真が著名である。1943年半ば以降には国産のT-34戦車の生産と配備が軌道に乗り始めて十分な数が前線に供給されるようになったことと、アメリカよりの供与品としてもより完成度の高い戦車であるM4"シャーマン"中戦車の引き渡しが開始されたため、以後は北方国境(コラ半島・カレリヤ地峡)・極東方面など主力戦線以外の配置部隊や訓練部隊に廻されたが、1945年時点でも装備する部隊は存在しており、1945年夏の時点でもザバイカル軍管区には少なくとも1両が配備されている、との記録が残されている[1]。M3中戦車は同年8月の満州侵攻でも使用されたとする説もあるが、確証はなく、疑問が残る。
実際に運用した赤軍戦車兵の評価では、M3は
と評価された。また、砲安定装置と無線手が操作する車体前面の連装固定機銃が「有効性はともかく興味深い装備である」と評されている。
反面、実戦での運用の結果として
といった問題が指摘されている。
なお、M3中戦車の他に派生型である戦車回収車仕様のM31も供与されており、M31Bが115両[5][注 5]供与されている。
この節の加筆が望まれています。 |
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.