KSBK
琉球放送が運営していた英語ラジオ放送局 ウィキペディアから
KSBKは、かつて琉球放送がアメリカ合衆国統治下の1955年に開始した英語放送[1]。1972年の本土復帰後にJOROと改称したが、翌1973年に廃止となった。
沿革
- 1950年代前半、米軍の公式な放送局であったFEN(Far East Network、AFNの前身)の内容に飽き足らなかった米軍関係者の間で、民間放送局の開設を求める動きが起き、琉球放送 (RBC) が協力することとなる[2]。
- 1955年9月1日 - 米軍関係者向けのラジオ英語放送として、放送開始[1]。中波 880KC(後のKHz) による放送であった[2]。琉球放送にとって、アメリカ統治下の沖縄を含む日本の民間放送局としては初の同一放送局による1局2波体制となる[注 1]。
- 1972年の本土復帰後にJOROと改称した。
- 1973年10月31日の夜に最後の放送が行われ、11月1日午前0時0分1秒に放送が終了した[2]と同時に、琉球放送での1局2波体制が終了した[注 2]。なお、廃止後も沖縄タイムスには11月2日まで[3]、琉球新報には11月8日まで[4]番組表が掲載され続けたままとなっていた。また、本土復帰後に付けられたコールサインのJOROは、英語放送廃止当日に、すでに中継局として存在した平良市(現・宮古島市)の宮古中継局(AM1150→1152kHz)に割り当てられたが、2005年4月1日に中波混信による難聴取対策として伊良部FM中継局(82.7MHz)と多良間FM中継局(82.2MHz)を開局、1ヶ月間のAM・FMサイマル放送を経て5月2日でAM放送を廃局すると同時にコールサインも返上した。
放送内容の特徴
ニュース素材は、APやUPIの通信記事を使う一方で[5]、沖縄ローカルのニュースも英語で取り上げていた。
また、民間放送として、自由な放送を行い、放送する音楽もよりロック色が強く、沖縄のミュージシャンにも大きな影響を与えたとされる。
純然たる現地資本だけでアメリカ人を雇用し、アメリカ本土の主要レコード会社と契約を結び、毎週の新譜を空輸していた。また、毎時放送されているニュースはAPやUPIのニュースをテレタイプで直接受信していた。[6]
DJのひとりであったアート・ベルは、KSBKで116時間15分連続のマラソン放送を行い、当時のギネス記録を樹立した[7]。
スタッフ
- オスカー・ルリヤ
- ダン・ホフマン
- ジェイ・フィールド
- ロッキー・ストーン
- ケイ・タガート(女性アナウンサー)
- マイク・マンデル
- ヴィック・クイック
脚注
外部リンク
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