トップQs
タイムライン
チャット
視点
2パック
アメリカ合衆国のラッパー (1971–1996) ウィキペディアから
Remove ads
2パック(トゥーパック[1]、英:2Pac、本名:トゥパック・アマル・シャクール(Tupac Amaru Shakur)、 1971年6月16日 - 1996年9月13日)は、アメリカ合衆国のヒップホップMC、俳優である。ニューヨーク市マンハッタン区ハーレム地区出身、アフリカン・アメリカン。元デジタル・アンダーグラウンドのメンバー。
名の「トゥパック・アマル」は、古代インカ語で「輝ける龍」の意味(インカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルと、彼の2代目を自称し反乱を起こしたホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(トゥパク・アマル2世)の名前から)。身長176センチメートル[2]。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第86位[3]。
Remove ads
生涯
要約
視点
2パックの両親、アフェニ・シャクールとビリー・ガーランドは、二人ともブラックパンサー党の党員だった[4]。また一族には、1979年に脱獄後キューバに亡命中のアサータ・シャクールもいた。
幼少期をブロンクスで過ごし、その後西海岸へ移住し、レイ・ラブとグループを組んだ。1991年、「MCニューヨーク」というMCネームでデジタル・アンダーグラウンド(Digital Underground)の一員として、グループの曲「セイム・ソング」に参加した。脱退後は「2パカリプス・ナウ」で2パックとしてソロ・デビュー。1992年には映画「ジュース」に出演、ヒップポップアーティストだけでなく俳優としても注目された。1993年には「キープ・ユア・ヘッド・アップ」をソウル・チャートでヒットさせた。また翌1994年にはグループ、サグ・ライフとして「プア・アウト・ア・リトル・リカー」を含むアルバムをリリースしている。1995年にはドクター・ドレー、ロジャーと組んだ「カリフォルニア・ラヴ」を発表し、大ヒットさせた。[5]
アルバムに収録された曲が、副大統領のダン・クエールから非難されたことがある[6]。また、5発(頭部に2発、股間に2発、手に1発)も被弾する事件に巻き込まれる。このとき事件現場にショーン・コムズとノトーリアス・B.I.G.がいたことから、この事件はバッド・ボーイ・レコード(二人が所属し、ショーン・コムズが代表を務める東海岸のレーベル)の陰謀だと疑い、西海岸と東海岸の一部のラップ関係者は激しく対立した。銃撃の怪我も癒えない1995年、2パックはファンの女性に性的行為を強要したレイプ疑惑で、懲役4年6ヶ月の判決を受けた。彼は服役中に刑務所内で、西海岸のデス・ロウ・レコードと契約。9ヶ月の服役後、デス・ロウ・レコードのオーナーであるシュグ・ナイトが用意した140万ドルの保釈金で出所した。当初、この保釈金はレーベルからの贈与であったが、後にレーベルが2パックに返済を要求したため、デス・ロウ・レコードに在籍し続けた。また、「Hit 'Em Up」では、ノトーリアス・B.I.G.と、バッド・ボーイ・レコードを非難した。
ヒット・アルバム「オール・アイズ・オン・ミー」発表後、出所前に獄中で読んだ本で出会ったイタリアの政治思想家ニッコロ・マキャヴェッリに感銘を受け、自身のアーティスト名を「マキャベリ(Makaveli(The Don Killuminati))」と改名。マキャヴェリ名義のシングル「リヴ・アンド・ダイ・イン・LA」がヒットした。[7]
死去
1996年9月8日、ラスベガスで友人のボクサー、マイク・タイソンの試合を観戦後、乗車中のBMWに横付けしてきたキャデラックから銃撃され4発被弾、6日後の9月13日に死亡。25歳没[8]。
以前は、犯人や動機は判明しておらず、後に同様何者かに殺害されたノトーリアス・B.I.G.と並び、アメリカ東西海岸ヒップホップ抗争の犠牲者と言われている。東海岸側の犯行が噂され、様々な憶測が飛び交ったが、2パックの母親はこの事件に関して、メディアにビギーとディディではない、別の数名の具体的な名前を挙げて非難している。死後、マキャベリ名義でアルバム「ザ・ドン・キルミナティ・ザ・7デイズ・セオリー」が発表された。2012年、ジェームス・ローズモンド(en:James Rosemond)がスタジオで2パックを撃ったと証言した。また、事件の前に関係していたブラッズのメンバーと共に、クリップスメンバーであるオーランド・アンダーソンへの暴行を行なっており、その報復であったという証言もある。
その後、2023年9月29日、 ラスベガスの地元警察は、サウスサイド・コンプトン・クリップスのメンバーのキーフィー・Dことドゥエイン・デイヴィス(Duane Davis)を、2パックの殺害を指示したとして、殺人の疑いで逮捕した[9][10]。
死後
死後も多数の未発表音源が発掘され、新作がリリースされている。2パックに憧れていたエミネムを始め[11]、多くのアーティストに影響を与え続けている。 2012年、米音楽祭Coachellaのドクター・ドレー、スヌープ・ドッグのステージには、ホログラムで登場した。
2パックのドキュメンタリー映画『トゥパック:レザレクション』は、2005年アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画としてノミネートされた。初期の音源は彼の母親であるアフェニ・シャクールが管理していたが、現在は大半の権利をエミネムに売り渡したため、昨今のアルバムはエミネムがエグゼクティブ・プロデューサーを務めている。また、デス・ロウ時代の音源はシュグ・ナイトがマーダー・インク(Murder Inc、現The Inc)やナズ(Nas)等の他レーベルに売り渡している。2017年には伝記映画『オール・アイズ・オン・ミー』が公開された(監督:ベニー・ブーム、主演:ディミートリアス・シップ・Jr)。
Remove ads
人物
マドンナと交際していた時期があり[12]、マドンナの曲「ビー・ユア・ラヴァー」のラップを担当したこともあるが、2パックが参加したヴァージョンは商品化されなかった。
音楽性
ロサンゼルスのギャングスタ・ラップにおけるウエストサイドとは、サウスセントラル地区の110フリーウェイで東西に区切られた西側を指す言葉であり、カリフォルニアを指す場合はあくまでウエストコーストと呼ばれる(一般的にも〜サイドとは市や地域の一部に対して使われる言葉)。ニューヨークに生まれベイエリアのオークランドと渡り歩いてきた2パックにとっては、ロサンゼルスのギャング事情がわからなかったため、カリフォルニア=ウエストサイドと誤用したとみられている。
ディスコグラフィ
要約
視点
→詳細は英語版「en:Tupac Shakur discography」および「en:List of songs recorded by Tupac Shakur」を参照
アルバム
死後に製作されたアルバム
コラボレーションアルバム
ライヴアルバム
コンピレーションアルバム
リミックスアルバム
サウンドトラックアルバム
詩集
- トゥパック アマル・シャクール著、小野木 博子訳『コンクリートに咲いたバラ』 2001年、河出書房新社、ISBN 978-4309203560。
Remove ads
フィルモグラフィー
→詳細は英語版「en:Tupac Shakur#Filmography」を参照
- ジュース - Juice (1992年)
- ポエティック・ジャスティス/愛するということ - Poetic Justice (1993年)
- ビート・オブ・ダンク - Above the Rim (1993年)
- ハード・ブレット/仁義なき銃弾 - Bullet (1995年)
- グリッドロック - Gridlock'd (1996年)
- Rhyme&Reason ライム&リーズン - Rhyme & Reason (1997年)
- ギャングシティ - Gang Related (1997年)
- ウェルカム・トゥ・デス・ロウ - Welcome To Death Row (2001年)
- ビギー&トゥパック - Biggie And Tupac (2002年)
- トゥパック:レザレクション - Tupac: Resurrection(2003年)
Remove ads
受賞歴
脚注
参考文献
関連事項
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads
